素晴らしい・おばあちゃん元気ですか?―1

     

《和子は又々こんな記事を見た~》

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103歳、尾道でひとり暮らしの哲代おばあちゃん。

20歳で尋常小学校の先生に。太平洋戦争中は

爪を切ったり洗濯したり、生徒たちの親代わりに

100歳を過ぎてもひとり暮らしを続ける姿が、「人生100年時代のモデル」

として注目を集めている石井哲代さん。反響の大きかった前号に続いての

登場で、来し方を語ります

  

◆人生はわからないもの まあまあ、ようこそおいでくださいました。

遠いところからお越しになられて、なんぼか早起きされたことでしょう。

婦人公論』いうたら、昔からありますよね。へえ、私よりお姉さんの

107歳ですか。せっかく取材にきていただいたんだから、

いろいろ思い出してお話ししましょうね。 もう長い間、小さな畑の守りを

しながら、ご近所さんとのおしゃべりに精を出す毎日です。そんな生活が

少し賑やかになったのは、今から3年前、100歳のときでした。

地元の『中国新聞』で、私の日常を紹介する連載が始まったんです。

といっても、黒豆を炊いたとか、デイサービスに行って歌を歌ったとか、

そんな何でもないことばかり(笑)。ところが、たくさんの感想や

励ましのお手紙が届くようになって。もう、うれしいやら、

びっくりするやら。 さらに今年は、本も出していただきました。まさか、

こんなことが自分の身に起きるなんて。人生は、何があるか

わからないものですねえ。 本を読まれた皆さんからいただいたお手紙や

カードは、玄関の一番目立つ場所に飾って、何度も手に取って眺めたり、

読み返したりしています。ほんまにありがたいことです。

     

◆駆けっこと読書が好きだった 1920年4月29日、広島県府中市

上下町(じょうげちょう)の生まれです。父は逓信省に勤めていました。

今の郵便局ですね。母は細々と農業を営んでおりました。

私は4人きょうだいの2番目で、上に兄、下に弟と妹がいます。

さいころは、とにかく遊びまわっていました。学校から帰ると

妹の桃ちゃん(桃代さん。現在96歳)を背中におぶって外に

飛び出すんです。私ね、足が速かったの。学校では徒競走の選手だったから、

放課後も張り切って練習してね。友だちとの駆けっこでも

負けるわけにはいきません。トットットッと全速力で走っていると、

近所のおばちゃんたちが目を丸くして「哲ちゃん!そがん駆けたら、

桃ちゃんがベロを噛んで死ぬるぞお」って。(笑) 貧しかったけれど、

温かい家庭でした。父は、5時きっかりに仕事を終え、

なじみの魚屋さんで買い物をして帰ってくるんです。当時の父親としては

珍しく、自分で魚をさばいておかずの用意をするの。夏に、2階の

物干し台で、弟を隣に座らせて、刺身をつまみに一杯やっていた姿が

忘れられませんねえ。 おなごは仲間に入れてもらえないから、ちょっと

うらやましくて。農作業を終えた母が帰ってくると、私と桃ちゃんと一緒に

父の焼いてくれた魚をおかずに夕飯を食べたもんです。

 贅沢はできませんでしたけど、本だけは買ってもらっていました。

月に一度、50銭もらって『幼年倶楽部』を買いに行くのが楽しみで。

9つ年上の兄も帰省するたびに本をお土産に買ってきてくれるんです。

特に好きだったのは、『ロビンソン・クルーソー』。家の手伝いも忘れて

読書に没頭するもんだから、よく父に叱られました。

   

師範学校を卒業して小学校の先生に 当時、女は裁縫で身を立てる

ぐらいしか道のない時代でした。私もすっかりそのつもりでいたら、

先生が「哲ちゃんみたいに不器用な子に裁縫は無理じゃ」って。ありゃー、

どうしたもんかと思っていると、父が先生と相談したんでしょう。

師範学校に行け」と言うんです。全国師範学校入試問題集とやらを

ドンと渡されて、しぶしぶ勉強することに。 でも、根がのんきな

ものだから、受験前日も父に連れられて初めて銭湯へ(笑)。

ゆっくり温もったおかげで頭の回転がよくなったのか、同じ教室で

受験した16名の学生のなかで私だけが合格しました。 師範学校

5年通い、20歳で尋常小学校の先生になりましたが、その翌年には

太平洋戦争が開戦。当時の親はみんな生きるのに精一杯で、子どもに

手をかける時間もありません。だからそのぶん、先生としてできることを

精一杯しました。 子どもたちを長椅子に座らせて順番に爪を切り、

髪をとかして、鼻水を拭いてやるのが日課。お漏らしした子のために

着替えのズボンを用意しておいて、濡れた下着は川でザブザブ洗いました。

 「せんせーい、今日もやりよるのー!」とバスの運転手さんが声をかけて

くれるから、「はいはーい!」と濡れた手を勢いよく振ったもんです。

運動会で披露するのは、男子は銃剣術、女子は長刀。はじめのうちこそ、

子どもたちも「紀元は2600年~」と無邪気に歌っていましたが、

世の中はみるみる貧しく、窮屈に。戦争反対を訴えていた教員組合も、

何も言えなくなりました。 終戦直前の福山大空襲は、忘れられません。

遠く離れた上下町から見ても東の空が真っ赤。「福山が焼けよる」――

そう思うと恐ろしくて、恐ろしくて。慌てて避難し、ふと我に返って

自分の手を見たら、大事なものを持ち出したつもりが、布切れ一枚だけを

握りしめていました。 今、ニュースでウクライナの様子を見るたび、

あのときの動転した自分を思い出し、ウクライナの人たちはどれだけ

恐ろしいだろうと胸が苦しくなります。

      

◆嫁の務めを果たそうとがむしゃらに 2番目に赴任した学校で

夫の良英さんと出会いました。あるとき、酔っぱらった良英さんを

介抱したのが親しくなったきっかけ。職場恋愛みたいなもんですね。

26歳のときに、夫が両親と暮らすこの家に嫁いできました。 結婚後は、

教員の仕事と農作業と家事をこなすのに必死で。家族の食事を作るのも、

五右衛門風呂を薪で沸かすのも、もちろん嫁である私の仕事です。

学校が終わったら猛スピードで自転車を漕いで帰り、日が暮れるまで

畑仕事、それが終わると晩ご飯の支度をします。 なにせ、本格的な

農業の経験がないでしょう。慣れるまでは本当に苦しかった。嫁としての

務めを果たしたい一心で頑張りました。 でもね、幸いなことに、

お姑さんが優しくてハイカラな人だったんです。薪を背負って町に売りに

出かけたときに、映画を観るのを楽しみにしていてね。帰ってくると

感想をうれしそうに話してくれました。それに、当時珍しかったソーセージを

お土産に買ってきては、「はい、明日のお弁当にどうぞ」って。 反対に、

お舅さんは古武士みたいな人。村長さんを務めていて、威厳のある人でした。

 つらかったのは、子どもを授からなかったことです。代々続く農家に

嫁ぎながら後継ぎが産めないなんて。もし私が、嫁という役割しか

持っていなかったら、この家にい続けることはできなかったと思います。

先生として、子どもたちを愛せたから、何とか頑張れた。 それでも、

舅に続いて姑を介護することになったときは、さすがに仕事を辞めようかと

悩みましたねえ。思い詰めて校長先生に相談したら、「あなたは、

仕事を辞めちゃいかん。定年まで続けなさい」ときっぱり。その一言で

思いとどまりました。 介護は、近所に住む親戚のおばさんに助けて

もらいながら、何とかやり遂げたんです。

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【孫の菓子 ひとつもらって 論吉出す(シルバー川柳)】