《和子は又々こんな記事を見た~》
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洗濯機をお風呂代わりに…
風間トオル(61)が語る、 幼少期の“極貧生活”
両親の離婚がきっかけで、子ども時代は祖父母と3人で暮らしていた
川崎市出身の俳優・風間トオルさん(61)。祖父母の年金収入だけを頼りに
生活していたため、十分な食事もとれない困窮した状況に陥っていた。
しかし風間さんは、自身の置かれた環境に絶望することなく、
知恵を絞りながら飢えを凌いでいたという。 いったい彼は、幼少期に
どのような生活を送っていたのだろうか?
祖父母と3人暮らしをするまでの経緯や、当時の生活状況、貧しい生活で
身についた知恵などについて、話を聞いた。
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母親が出て行って1週間で父親もいなくなる
風間さんは子どもの頃にご両親と離ればなれになったそうですが、
当時のことは覚えていらっしゃいますか。 風間トオルさん(以下、風間)
当時は父方の祖父母の家で、祖父母、両親、俺の5人で暮らして
いたんですが、5歳のときにお袋が出て行ったんです。
お袋が出て行く直前のある日、彼女に連れられて河原に行ったら、
知らない男性がそこにいたんですね。子どもながらに
「お袋には新しい男の人がいる」というのがわかりました。
そして、両親は離婚することになったんですけど、お袋から
「母親と父親、どっちについていくか選びなさい」と言われて。
👱 難しい選択だったと思いますが……。
🙎 風間 親父の方のおじいちゃん・おばあちゃんと一緒に住んでいたので、
そちらを選びました。「知っている人がいっぱい、いる方がいい」というのも
ありましたし。 そうしたら母親が出て行って1週間くらいで、今度は
親父がいなくなって。
「両親が恋しい」という気持ちはなかった
👱 1週間ですか。
🙎 風間 はい。祖母は「新しい女の人ができたんだろう」と
言ってました。「まあ、そのうち帰って来るよ」と言われていたので、
俺も「あ、そうなんだ。じゃあいずれ帰って来るんだな」と思って
いたんですけど、結局帰ってきませんでしたね。
👱 ご両親がふたりとも出て行ってしまった当初、どのような
心境だったのでしょう。
🙎 風間 おじいちゃんとおばあちゃんがいたので、生活はいつも通り
でしたし、幼かったせいか、「両親が恋しい」といったこともあまり
なかったと思います。特に両親が出て行く予兆というか、普段から両親が
言い合いをしたりすることもなかったので「え、そんなもんなんだ」と
いう感じでした。
父親が祖父母にお金をせびりに来ることも
👱 ご両親とはその後、会われたりしましたか。
🙎 風間 母親とはそれっきり一度も会っていませんね。 父とは今でも
交流があります。父親が出て行ったあと、彼がふらっと家に来て
「今ここに住んでるから遊びにおいで」と言われたことがあって。
それで小学生の時に一度、1人で会いに行ったことがあったんです。
「もしかしてお父さんが『一緒に暮らそう』と言ってくれるんじゃないか」と
いう淡い期待を抱きながら。 でも結局父親にはそんな気があったわけでは
なかったらしく、一緒に夕飯を食べたあと「早く帰れよ」なんて言われて
帰りました……。
👱 お父様はその後も、ふらっと現れることがあったんですか。
🙎 風間 ありましたね。祖父母にお金をせびりにきていました。
だから「自分の困った時だけお金をせびりにくるなんて」と思っていたけれど、
おばあちゃんは母親だから、結局お金を渡してしまうんですよね。俺は
「出さなくていいのに」と言うんだけど。
長屋から6畳一間のアパートへ引っ越し
👱 風間さんのおじいさんとおばあさんはどういった人だったのでしょうか。
🙎 風間 おじいちゃんは無口で、威厳のある感じでした。おばあちゃんは
家事や俺の面倒を見てくれたり、いつもよく働いている人だったなあと
思います。
👱 おじいさんおばあさんと暮らしていた頃は、どのような生活をされていましたか。
🙎 風間 経済的には厳しかったと思いますね、収入が2人の年金だけに
なってしまったので。 当時住んでいた祖父母の家はいわゆる長屋で、
トイレが隣の家と共用だったんですね。だから扉を開けたら隣の人が
便器の上にしゃがんでいたり、逆にこちらが用を足している時に扉を
開けられてしまったり、というようなことがありました。
父が出て行ってからほどなくして祖父母と俺は引越しをしなくては
ならなくなり、6畳一間のアパートの1階に移ったんです。そこがすごく
古びていて、錆びたトタン屋根と、トタンで建物を覆っただけの壁に
囲まれて生活していました。
👱 3人で6畳一間ですか。
🙎 風間 雨の日なんかは窓の隙間や壁の亀裂から雨が吹き込んで来るし、
雨漏りがすごくて、まるで「ドリフターズ」のコントみたいに家の中に
いくつもタライを置いて。梅雨時には畳や天井に黒カビが繁殖するのが
すごくいやでした。
そのへんに生えている草花を食べて飢えを凌ぐ
👱 当時、ご自身の家が困窮していることは理解していたのでしょうか。
🙎 風間 小学校に行くようになってからですかね、自分で「うちは
他の家とちょっと違うぞ」と気が付いたのは。みんなの家にはある電化製品が
うちにはなかったり、友達の家に行って「こんな美味しい食べ物があるんだ」と
知っ た時に「あ、うちはお金のない家なんだな」と。
👱 貧困であることを知った時、どのような気持ちでしたか。
🙎 風間 「そういう家なんだな」という感じでしたね。絶望しても
しょうがないし、何か欲しいと思っても買える家じゃないことがわかって
いたから「無理なものは無理」と考えていました。だから、早く大人に
なって自分で稼いだお金で好きなものを買いたいな、というのが
心の支えでしたね。
👱 食事は十分に摂れていましたか。
🙎 風間 うーん、あまり量は食べられなかったかな。おじいさん
おばあさんの家なので白いご飯とお味噌汁とお新香くらいで、当時の
自分にとってはあまり食べた気がしないというか。 だから飢えを凌ぐ
ために、そのへんに生えている草花なんかを「これは食べられるかな」と
思って食べたりしていましたね。中でも紫のアサガオなんかはほんのり
甘くて、素揚げにしたら美味しいんじゃないかと思って試してみたら
本当に美味しかったんですよ。 あとは、家の中にいたカマキリを食べて
みたこともあります。
怪我をしたら唾を付けて自然治癒
👱 どうしてカマキリを?
🙎 風間 なんでですかね、お腹が空いていたんでしょうね。緑色で
サラダ系の味がすると思ったのかもしれません。イナゴの佃煮をよく
食べていたのでカマキリもいけるんじゃないか、くらいの感覚で(笑)。
「ああ、美味しそうだな」と思って足をちょっとかじってみたんです……。 ―
👱 どんな味でしたか。
🙎 風間 苦かったです、やっぱりダメでした(笑)。
👱 お腹を壊したりしませんでしたか。
👱 風間 全然。子どもの時からお腹を壊すことはあんまりなくて。
もしかしたら免疫があるのかもしれません。自然治癒力も高いと
思うんですよ、怪我をしても唾を付けていたらすぐに治っていました(笑)。
毎日お風呂に入りたいから、服を着たまま洗濯機へ入り…
👱 すごいですね。ちなみに、お風呂は毎日入れていましたか。
🙎 風間 3日に1回くらい、おじいちゃんとおばあちゃんは銭湯に
行くんですけど、僕は子どもだったから汗をたくさんかくし、毎日お風呂に
入りたいと思っていて。そこで考えたのが、家の外にある洗濯機で体を
洗うことでした。 外から帰ったら服を着たまま、固形石鹸を手に持って、
洗濯槽が回らないように両足を洗濯槽の壁に突っ張ってスイッチを押すんです。
今考えると本当に危ないんですけど、当時の僕は「汚れた服と一緒に体も
洗えるので一石二鳥」くらいに考えていました。冬は寒かったですけど。
👱 お話を聞いていると、貧しいなかでもすごく工夫をしながら
生きていたといいますか。
🙎 風間 色々と工夫したり、試すのが楽しかったんですよね。
大人になった今でも色々考えたりします。多分、そういうのが
好きなんでしょうね。 専門学生の時も、1人暮らししていたアパートの
部屋に冷蔵庫がなくて。うちに遊びに来た友達がたまたま牛乳を買って
来たことがあったんですが、全部飲みきれなくて、夏場だったので
「これ腐っちゃうな、どうすればいいかな」と思って。
で、思いついたのが「土の中に埋める」ことだったんですよ。
👱 土の中に?
👱 風間 アパートの部屋が1階で、窓から出たらすぐに地面が
あったので、そこに。そのまま埋めると虫が来ちゃうから、近くの魚屋さんで
発泡スチロールをもらってきて、そのなかに牛乳パックを入れて、
土を深く掘って埋めたんですけど、意外によく冷えてました。
で、友達が来るときは砂を退けてから牛乳を出してあげるんです。
そうすると「あ、そこが冷蔵庫なんだ」とびっくりしていましたけれど(笑)。
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