《和子は又々こんな記事を見た~》
💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦
高齢の両親に介護されるいらだち
難病と闘う落水洋介の葛藤
#病とともに #ザ・ノンフィクション #ydocs
よく酒を飲み、よく笑う。初対面の人ともすぐに打ち解けられるのは、
天性のものなのだろう。落水洋介さん(41)は、100万人に1人とも
言われる「原発性側索硬化症(PLS)」を患っている。いずれ寝たきりと
なる進行性の難病で、すでに自力歩行はできず、移動はいつも電動車いすだ。
普段は笑顔を絶やさない落水さんだが、葛藤もある。同居する年老いた
両親に介護される日々。二人に心の中では感謝しつつも、面と向かうと
冷たい言葉を浴びせてしまう。 そんな自分が嫌で、ついつい酒量が
増えてしまう。 明るさと弱さ。その人間らしさに惹かれ、取材を始めた。
レモンサワーのグラスを傾けながら、落水さんが語った「夢」とは。
結婚披露宴の翌年に…体に起きた突然の異変
落水さんは1982年、福岡県北九州市で生まれた。運動神経バツグンの
サッカー少年で、小学校の選抜チームでは、元日本代表の大久保嘉人さんと
チームメイトだった。 大学卒業後は、美容品メーカーの営業マンとして
がむしゃらに働いた。フットワークの軽さと人懐こい性格で、社内外から
愛された。 25歳で妻・文子さんと結婚。すぐに長女が生まれ、二人目の
子どもの妊娠を機に、29歳の時にあらためて披露宴も挙げた。
式を記録した映像には、両親を前に「幸せな家庭を築き、恩返しができるよう、
より一層頑張ります」と力強く誓う落水さんのスピーチが残されている。
ところが翌年、体に異変が起きた。 足がもつれ、呂律が回らない。
いくつもの病院を回ったが、原因が分からない。PLS(原発性側索硬化症)と
診断されたのは、異変から2年がたった時だった。その間に、
歩行は困難となって一人で通勤することも難しくなり、職も失った。
PLSは、大脳から脊髄にいたる運動神経に障害が起きる進行性の病だ。
同じタイプのALSよりも進行は緩やかとされているが、ALS同様に治療法は
見つかっていない。 妻と、連日将来のことを話し合った。その結果、
落水さんの方から、「家族に負担をかけられないから」と別居を申し出る。
上の子は、まだ小学校へ上がったばかりだった。 そして2015年11月、
33歳の時に、失意と不安の中で福岡県内に住む両親の元へ身を寄せた。
親への感謝といらだち 難病ゆえの葛藤
落水さんの両親は共に70歳を超えている。落水さんが「家に戻りたい」と
伝えると、両親は温かく迎えてくれた。 落水さんのことを両親は献身的に
介護した。 朝は主に父・徹夫さんの担当。服を着替えさせ、自家製の
野菜ジュースを用意する。車は後部座席に車いすごと乗れるように改造し、
落水さんが遠くへ外出する際はドライバーも務める。 一方、日中に
訪問介護の仕事を始めた母・仁子さんは、毎日のように飲み歩く落水さんの
帰宅を自宅で辛抱強く待つ。酩酊する息子が帰ってくると、玄関先から
ベッドまで背負って運び、下着も含めて着替えをさせ、顔から足先までを
丁寧に拭いて寝かせる。 老いた両親にとっては荷が重いように見えた。
そんな両親に対し、落水さんは冷たい。何か問われても返事はぶっきらぼう。
心配をよそに、連日飲み歩く。 落水さんは、病気になる前からお酒が
大好きだったという。車いす生活になってからも、毎日のように飲む。
近所の飲み屋のほとんどが知り合いで、落水さんのために、トイレに
手すりをつける改装をした店もいくつかある。 酒に酔えば、思いがけず
乱暴な言葉も出てしまう。 私たちは、必死で介護する仁子さんに
「最悪」「死にたい」などの暴言を放つ落水さんも見た。 けれど仁子さんは
意に介さない。「私は全然平気。そういう本音を言えるのも家だから」と
笑って見せる。母の強さだろうか。
自立を目指して 合同会社「PLS」設立
両親に介護され、やりきれなさを酒で流す日々。けれど、そんな自分を
変えたいという意思を持ち続けていたことが、少しずつ状況を好転させた。
きっかけは2016年頃から始めたブログだった。 電動車いすを
入手する時に、窓口や方法がわからず苦労したことを機に、自身の体験や
福祉の情報を発信し始めたのだ。やがてブログは評判となり、落水さんは
講演などにも呼ばれるようになる。 前向きな気持ちが戻ってくると、
持ち前の明るさもあって、支援の輪は広がっていった。 そして2018年、
落水さんは合同会社PLS(Peace Love Smile)を設立。病気についての
情報発信や、福祉の啓蒙活動などを行う会社だ。 社長の落水さん以外の
スタッフは、ブログなどで知り合ったボランティア。
メンバーは社会人が中心で、皆に共通しているのは落水さんに遠慮を
しないこと。運営がおかしければ面と向かって批判もする。
落水さんは慣れない社長業に悪戦苦闘しながらも、仲間たちとの
時間の中で一つの夢を形にしようと動き出す。
夢は一人暮らしをすること
ディレクターの私が初めて落水さんと会ったのは、2023年2月。
ファストフードの店で話をしたあと、落水さんの誘いで居酒屋へ行った。
落水さんは、レモンサワーのグラスを傾けながら一つの夢を語ってくれた。
「親元を離れ、一人暮らしをしてみたいんです」 介助が必要な落水さんに
とって、厳密に一人きりでは生活できないものの、親に負担をかけずに
生きたいというのだ。それは、親への葛藤の解決としてだけでなく、
障害を持っていても自由に生きられる、ということを証明するため
でもあるという。 具体化に向け、支援者の協力で自宅近くに一軒家を借り
「おっちーハウス」と名付けた。階段に手すりをつけ、電動ベッドを
搬入するなど、内装を少しずつバリアフリーに変えていく。 両親は
「一人暮らし計画」に夢中になる落水さんを、うれしさ半分、不安半分で
応援していた。 落水さんの場合、ヘルパーの支援は、障害保険などで月に
120時間程度が認められている。24時間一人暮らしするにはそれでは
足りない。落水さんは、ヘルパーを使える時間を増やすための
仕組み作りにも奔走した。そして2022年12月から、週に1回ヘルパーに
宿泊してもらってのお試し一人暮らしがスタートした。 初めて実家を離れて
外泊した日、落水さんは「小さな一歩です」と笑った。
大らかさが仇となり…大恩人を激怒させてしまう
落水さんには、恩人がいる。 実家の近所で不動産関連の会社を
経営している黒谷さんだ。2016年頃、境遇にふさぎ込む落水さんを
ブログで知り、落水さんの母校(黒谷さんの息子も当時同じ学校に
通っていた)の体育祭へ無理やり連れ出したそうだ。それが契機となって
さまざまな縁も生まれ、落水さんは再び人生に前向きになったという。
落水さんは黒谷さんを大恩人と慕い、取材中、たびたび杯を交わす
二人の姿があった。 ところが2023年6月、二人の関係に亀裂が生じた。
黒谷さんが、落水さんに愛想を尽かし「もう会いたくない」と伝えてきたのだ。
事情を聞けば、PLS社のボランティアスタッフの一人が、酒の席で
黒谷さんに暴言を吐いてしまったそうだ。社長としてすぐに謝罪すべき
ところを、まあ大丈夫だろうと軽く考え後回しにしてしまった。
それで関係がこじれてしまったとのことだった。
「自分が営業マンだった頃はこんな失敗はしなかった…」 落水さんは
自分のせいだと幼子のように号泣した。その涙は、病気で変わって
しまった自分への悔しさでもあった。 けれど、黒谷さんの落水さんへの
思いは変わっていない。 2024年1月、二人は行きつけの居酒屋で
偶然再会する。黒谷さんは落水さんの謝罪を受け止め、二人はまた元の
関係に戻った。 落水さんの周りには、いつだって温かい人たちがいる。
「いつもありがとう」 両親に伝えた感謝の気持ち
仲間にも恵まれ、一人暮らしへの夢に向かって進み始めた落水さん。
けれど、心にモヤモヤと残っていることがあった。それは両親についてだった。
いつも冷たくあたってしまう父と母に、きちんと感謝の気持ちを
伝えるべきではないか。落水さんは、私の取材を機にある決意をした。
電車へ乗って出かけたのは、実家近くの繁華街。花束を買おうと
思っていた店は閉まっていて、代わりにうなぎ店で持ち帰りのうな重を
注文した。母が疲れていた時に、「うなぎを食べたい」と
つぶやいていたのを覚えていたのだ。 注文ができ上がるまでの間、
落水さんは店のカウンターで照れ隠しのように瓶ビールを飲んでいた。
「いつも、ありがとう」 帰宅を迎えた母・仁子さんに、落水さんは
はっきりと伝えた。 息子から母への、初めての感謝の言葉。
「いい匂いがする」 仁子さんは目を潤ませながらうな重を受け取って、
奥の部屋にいた夫の徹夫さんを「お父さ~ん」と大きな声で呼んだ。
落水さんのこれから
取材から1年あまりが過ぎた今、落水さんの体の力は少しずつ
弱くなっている。けれど活動は精力的だ。今も、ヘルパーを入れて、
週に1回は外泊を続けている。 また「おっちーハウス」では支援者と
子ども食堂も始めた。誰とでも仲良くなれる落水さんは、
地域の人が集まる“中心”にもなっている。 何より変わったのは
親子の関係だ。母・仁子さんによれば、自宅では以前よりも親子の
コミュニケーションが増えたという。 そればかりか、落水さんは母と
二人そろっての講演も始めたそうだ。7月にも北九州市からの招きで、
大きな会場に登壇する予定だ。舞台上で照れくさいように笑う落水さんと、
誇らしげな仁子さんの姿が、目に浮かんだ。
💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦