統合失調症の兄との40年。知人には・・・

       

《和子は又々こんな記事を見た~》

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「あなたは人生を無駄にした」と言われたが、

後悔したくない私は面倒を見ると決めた

日本の統合失調症の患者数は80万人ともいわれ、人口の0.7%、

100人に1人弱いると言われています。原因はよくわかっておらず、

仕事や人間関係のストレスや、人生の大きな転機などでストレスや緊張が

増したとき、発症するのではと考えられています。統合失調症を患う人を

抱えた家族の苦悩とは… * * * * * * *

 

 ◆兄が亡くなり「良かったわね」と言われた 兄が亡くなったことを

知人たちに知らせた時、「良かったわね」と言う人たちがいた。普通では

言えない言葉だが、兄の精神状態がひどい時のことを知っている人たちだった。

「お兄さんのために、あなたは人生を無駄にした」と同情もされた。 兄は

私よりも4歳年上で、4年前に70歳で亡くなった。

兄は妄想や幻覚のある統合失調症を約40年患っていた。 統合失調症

100人に1人の割合で発症すると言われていて、それほど珍しい病気ではない。

現在は薬がいろいろ開発され、社会に出て働いている人もいる。

統合失調症は、私の若い頃は、遺伝とか犯罪に結びつくという誤解があり、

私も兄が統合失調症だと分かり、見合い話がなくなった経験が2度ある。

 今ではインターネットを見ると、厚生労働省の制度や患者本人と家族が

相談できるセンターを知ることができ、便利な時代になったと思う。しかし、

情報を手に入れることができても、病気になった本人の苦しみと家族の

悩みは、すぐには解決できないと思う。 この病気は、1937年から

精神分裂病」と呼ばれ、2002年8月に「統合失調症」と病名が変更された。

現在の呼称に合わせて「精神分裂病」は「統合失調症」、「看護婦」は

「看護師」、「精神病院」は「精神科病院」、「保健婦」は「保健師」と

書くことにする。

 

◆総合病院から簀巻きにされて追い出された 兄は小学校、中学校、高校と

成績は中の上で、友達が多く、母が先生に言われたのは「おとなしいので、

もっと積極的になるように」くらいだった。背が高く、スタイルが良く、

スポーツもできた。しかし、家では急に怒り出し、母と私に暴力を振るった。

 両親はこの家庭内暴力は大人になったら治ると確信していた。

父方にそういう人がいたからである。 兄は2年浪人して大学に入学した。

その頃には家庭内暴力はなくなった。大学は休まず、アルバイトとして

高校時代の友人たちと建設会社で働いたり、有名ロックバンドの地方公演の

写真撮影をしたりしていた。 兄が変貌してきたのは、大学4年生の頃だった。

家に連れてくる友人たちのタイプががらりと変わった。暗い感じのする

人たちだった。 兄はその友人たちとKさんという教祖のような人のいる

マンションに、たびたび通うようになった。なぜそれが分かったかと言うと、

私がテレビで歌謡番組を見ていると、兄が「テレビ番組の多くは体制側だと

Kさんが話していた。この番組は見るな」と言うのである。私が仕方なく

テレビを消すと、今度は「音楽というものの本質を言ってみろ」と、

議論を吹きかけてくるのだ。やがて、兄がいる時に見られるテレビは、

大相撲だけになってしまった。大相撲だけは、始まると兄の方から

「やってるぞ」と声がかかるから不思議だった。 兄は、「会社員になり

体制側になるのは嫌だ」と言い出した。父は社会に出て働くようにと

兄に説教をしたが無駄だった。 兄は、Kさんのところに通う友人の一人が

故郷に帰るというので、その人のアパートで暮らすようになった。

しばらくして、アパートから自宅に通い、父の仕事を手伝うようになった。

父は、母と兄とパートの人と商品を作り、都内の自分の会社に届けて

販売をしていた。兄はパートの人には愛想が良かった。 そのうちに母に、

「アパートの人が俺を殺す相談をしている」と言い出した。さらに

「Kさんの父親はひどい人だ。Kさんを精神科病院に入れてしまった」と

怒っていた。 ある日、総合病院から電話があった。兄が高熱を出し、

腎臓が悪いので入院させる必要があるから、家族が来てくれというのである。

アパートからその病院に1人で行ったのだ。 3日すると、看護師から

自宅に電話があり、兄が看護師たちに因縁をつけ、患者たちが

怖がっているとのことだった。母と私は駆けつけたが、

兄は「入院患者の存在意義を看護師に確認したかった。病室という空間が

理解できない」と、緊張した顔で話していた。母は「哲学者では

ないのだから、気楽にしていなさいよ」となだめていた。 後日、

兄は腎臓が良くなり退院できることになったが、

「俺は存在する必要がある」と言い出し、退院を拒否した。そのため、

兄は毛布で簀巻きにされ、上から紐で結わかれ、病院の職員5人が

担ぎ上げて、父の運転する車に押し込まれた。兄は「何をするんですか!」と

わめきちらしていた。 兄は自宅に戻ったが、急に立ち上がり、天井に

向かって話しかけ、面白いこともないのに、「ハッ、ハッ、ハッ」と何度も

笑うようになった。 母が保健所に相談に行き、保健師が自宅に来て

兄と話をした。話のつじつまが合わず、保健師は、「だめだこりゃ」と言って

帰ってしまい、それっきり来なくなった。 両親は兄のアパートに行き、

荷物を整理してそこを引き払った。

 

◆全て妹のせいになっていた 母は、新聞記事などで精神科病院の中には

劣悪のところがあることを知っていて、

兄を良い病院で診察してもらいたいと思っていた。母は、兄に知られないように

公衆電話から精神科病院に電話したが、全て「ご本人を

説得してから来てください」と言われた。両親は、「精神科病院へ行こう」と

兄に言い、「俺を精神病だと言うのか!馬鹿野郎!」と怒鳴られていた。

 昭和50年代の半ば、私は書店で良い精神科病院の紹介、家族が本人に

どう対応したら良いかが書いてある本を探したが見つからず、精神病患者に

対する残酷な歴史を書いた本ばかりを立ち読みすることになった。

そのうちに兄の状態は静まってきて、時おり、いない人に怒る程度になった。

 しばらくして困ったことが起こった。父が家族に隠していた借金が

明らかになり、猛烈な夫婦喧嘩が自宅で繰り広げられた。都内の会社から

従業員が自宅に来て、「この家を売れば借金は返せる」と父に威張って言い、

父に対する兄の気持ちは不信感だけになった。 そのことがあってから、

兄は父の前で暴れ始めた。私は危険を感じて、警察に電話した。しかし、

警官は「よくある親子喧嘩だ」と判断して帰ってしまった。 その後、

親子喧嘩がエスカレートしたので、私はまた警察に電話した。 兄が全く

意味不明のことを話すので、警官は「精神鑑定をする医師のところに

連れて行く」と言い、兄をパトカーに乗せて、父に自家用車で後について

来るように言った。 精神科病院で精神鑑定をされ、兄はすぐにその病院に

入院した。母は兄の入院用の衣類や洗面用具を持って行った。 ところが

次の日、病院の看護師から電話があった。 看護師は母に、「精神病だから

息子さんを見捨てるつもりですね。可哀そうじゃありませんか、

タオル1枚しか持って来ないなんて」と言われたのだ。

母は大きなバッグに入れて渡したのに信じてもらえないと嘆き、

また用意していた。かなりショックだったようだ。後日、病院から電話があり、

入院患者が兄のものを自分のものとして使っていることが判明した。

 私は病院に行き、兄のケースワーカーに会った。 「お兄さんは、

『妹に栄養になると言われて薬を飲まされ、それから体調が悪くなった。

全て妹のせいだ』と話しています」と言われた。 「そんなの嘘です。

ひどすぎます。私が警察を呼んで、入院させられたから恨んでいるのですね」と、

私は激怒して言った。 すると、ケースワーカーは静かに話した。

「お兄さんがそう思っているので、仕方がないです。恨まないようにして

退院させます」 私は兄の妹として生まれたことが、大悲劇だと思った。

 母は兄が統合失調症と診断されてから、顔の表情を失い、言葉も少なくなり、

別人のようになった。父は「お母さんはもう駄目だな」と言った。

私は大相撲の2階席のチケットを2枚持っていた。母に「お兄ちゃんが

入院して、こんな時だから行くのはよそう」と言った。すると母は

「何を言っているの。こんな時だから行くんじゃない」と怒った。

母は私と大相撲を観戦し、もとの母に戻ったのには驚いた。筋金入りの

相撲ファンだと感じ、大相撲の力を再確認した。 医師は兄には

統合失調症(当時は精神分裂病)」とは言わずに、

「脳波に異常がある」と話していた。

   

精神科病院が兄の聖地に 兄は半年間入院して、自宅に戻った。

兄は穏やかになり、よその人のようだった。入院させたことを恨む言葉は

なかった。そして、父の仕事を手伝いだした。 兄は担当医師と

ケースワーカーを信頼していて、言われたことを母に報告していた。

担当医師やケースワーカーが変わっても同じだった。しかし、兄は両親と

私が病院に関わるのを嫌い、一人で通院した。兄は気分の変化が激しくて、

季節の変わり目は病状が悪くなることがあった。それでも家族が

付き添うのを嫌がった。兄は何種類もの薬を飲み、食卓の近くに薬を

置いていたが、家族が触るのは厳禁だった。精神科病院が兄の聖地だと

私は思った。 私は、兄に振り回されそうな時、

神経症(不安障害、強迫性障害など)と鬱病の治療をしているクリニックに

行き、家族は兄にどう対応したらよいかを相談した。禅の教えをもとにして

「あるがまま」を受け入れる「森田療法」を実施しているところだった。

医師は、「普通にしていなさい。お兄さんがおかしなことを言っても、

それは病気なのだから怒ってはいけない。統合失調症の人は一種独特の

ものの考え方をするので、それをいちいち気にすることはない」とのことだった。

兄の書いたものを読んだことがあるが、「善美醜悪で人を判断してはならない。

善美醜悪は芸術である。精神が満ち足りたのが宇宙である。宇宙は社会で

なく心理である」など、考えが高度すぎて、私にはついていけなかった。

 そして平成元年に、また父の借金が明らかになった。父の手が震え出して

働けなくなったので、銀行が借金の催促をしてきたのである。自宅を売って借金を

返済し、引っ越した。会社は廃業となった。父は難病と分かり、

病院の神経内科に平成10年に亡くなるまでの2年間入院した。

重篤な患者ばかりで、父と同室になった患者は何人も亡くなった。

病室の方の遺族が荷物を取りに来た。すぐには帰らず、父の傍にいる母と

私に、「家にいる時に優しくすればよかった」「もっと世話をすれば良かった」と、

時には泣きながら後悔の念を訴えるのである。 私はこの時、後悔したくないので、

両親と兄の面倒を最後までみようと決めた。 父が亡くなって

しばらくすると、兄は「家のことをする」と言い出し、夕食後の食器洗いと

風呂の掃除をしだした。これは困ったことになった。3人分の食器を

2時間以上かけて洗い、狭い風呂場を2時間以上かけて洗うのだ。

水道代は跳ね上がった。母は「本人がやると言っているのだからやらせよう」と

言い、他で節約をしていた。

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【良い医者を 待合室で 教えられ(シルバー川柳)】