身近な人の困難に寄り添える社会を・・・


                        f:id:akicyan6041:20210529163450j:plain

      《和子は又々こんな記事を見た~》

   💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦

 難病の妹支えた沖侑香里さん

家族の介護や世話をする子供「ヤングケアラー」。国の実態把握は緒に

ついたばかりだ。当事者らは家族とどう向き合い、困難を乗り越えてきたのか。

障害のある人の兄弟姉妹らが集う「静岡きょうだい会」の

沖侑香里(ゆかり)代表(31)は子供時代を振り返り、「言葉にならない

思いに耳を傾けてほしい」と話す。 沖さんの5歳下の妹は知的障害を伴う

進行性の難病を患っていた。3歳になる頃には自力で歩くことが難しくなり、

やがて支援なしに食事をすることもできなくなった。 妹を介護する母を

手伝うのは、ごく自然なことだった。小学生の頃から、妹の食事を

ミキサーでペースト状にしたり、口に運んで食べさせたり…。入浴時の

着替えやおむつ交換、たんの吸引なども担うようになっていった。

     f:id:akicyan6041:20210529163835j:plain

 本音に蓋をして 介護の一端を担うことで勉強や学校生活に支障は

出なかったが、周囲に妹のことをどう話せばいいのか戸惑うことは

増えていった。障害があることが分かると話題にしたことを謝られたり、

重苦しい空気が流れたりする。行き場のない思いが胸を覆うが、

周囲に相談はできなかった。 「妹や母の大変さに比べれば、自分なんかが

弱音を吐いてはいけない」。いつからか、自分の本音に蓋をしてその場を

やり過ごす術を身に付けていった。 高校卒業後はマーケティング

学びたいと地元・静岡県を離れ、名古屋市内の大学へ。在学中、

障害のある兄弟姉妹を持つ人たちが語り合う自助グループ「きょうだい会」と

出会った。悩みや不安を共有できたことで「孤独」を抱えた心が救われた。

揺れ動く思いを受け止めた上で、自分らしく生きることの大切さを

考えるようにもなった。 県外で就職を決め、入社3年目を迎えた夏。

母が倒れ、約2カ月後、この世を去った。末期がんだった。

 悲しみの中でも、妹をどう支えていくか考えなければいけなかった。

「今の生活に近い環境で穏やかに過ごしてほしい」。そんな思いはあったが、

持病のある父に介護を任せることは難しい。無機質で薄暗い病院の病室で

晩年を過ごす妹の姿は想像できなかった。 共有できる場を 介護休暇を

とってグループホームなどの施設を探し始めたが、空きが見つからず、

会社を退職。介護支援を受けながら、暮らせる部屋に妹が入居できたのは、

しばらくしてのことだった。自らも地元で再就職し、妹の生活を

見守りながら暮らせる態勢を整えた。 母の死から約2年後の

平成29年夏、妹は21歳で息を引き取った。妹のことも、

自分自身のことも大事に考えながら、走り抜けることができたと思う。

 妹が亡くなった後、障害がある人の兄弟姉妹が抱える思いを伝えたいと

講演活動を始めた。

      f:id:akicyan6041:20210529164053j:plain

そこで知り合った仲間とともに「静岡きょうだい会」を

立ち上げたのは30年11月。当事者らが、自らの思いを言語化して

共有できる場があることの大切さを感じていた。 「子供の頃、自分の

つらさを周囲に話していいのか、発信したところで分かってもらえるのか

不安だった。『自分は一人じゃない』と思える場があるだけで安心できる。

身近な人が抱える困難に思いをはせ、寄り添える。そんな社会が

実現できるといい」

💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦

 

     f:id:akicyan6041:20210529164337j:plain


和子が子供の頃は、良く聞く言葉に「人生50年!!」と言われた時代

和子の育った田舎の山奥には、余り障害者は見た記憶が無かったけど~

やっぱり今の様に食べ物も貧疎だったし障害の有る子供さんはみんな

亡くなって居たのかな?

 

タダ、和子の生まれた部落の隣りの部落は、最初は50軒位の部落だった

様ですが、若い男女が義務教育を出て成人すると隣り近所でカップルが

出来ちゃって、部落の中で皆さん其々に結婚し、血族結婚が多く奇形児が

数名居ましたね?発育不全で小人が居たり・・・白人・肌も白・髪も白

眉毛・まつ毛も白・髪は黒く染めて居るけど・・・やっぱり

異様な雰囲気ですね?子供ながらに血族結婚の恐ろしいと思いましたね?

喜寿過ぎの 浮気は妻に 励まされ(シルバー川柳)】