「家に帰らせて」母84歳・父90歳、・・・

  

《和子は又々こんな記事を見た~》

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認知症の両親を施設に入れた子が綴る介護のリアル

 90歳の父は骨髄異形成症候群が悪化して白血病に、84歳の母は転倒を

繰り返した末、寝たきりに。ともに、認知症が進んでいる。介護とは無縁だった

「家だぁ~」  久しぶりの家に、母は玄関に入るなり、大きな声を出した。

「家に帰ってきたのね。家なのね」  2021年5月。母は車椅子で、

急な玄関スロープを上がり、段差だらけの我が家に帰ってきた。風が吹けば

雨戸はカタカタと音を立て、蜘蛛の巣と害虫と湿気だらけの我が家に。

わずか2泊だったが生きる力を取り戻し、揃って施設へ帰っていった。  

昭和8年生まれの父と14年生まれの母。いつまでも二人住み慣れた

我が家で寄り添って暮らせたらよかったが、長く認知症の父をケアしていた

母が急激に認知症が進み昼夜逆転。日々の生活が危うくなった。

「もう、家はダメだろう」

■ 母の希望を叶えたい  

コロナ禍の20年夏に二人同時に特養(特別養護老人ホーム、正式名称は

介護老人福祉施設)に入所。しかし翌年には退所し、看護小規模多機能型

居宅介護(通称・看多機)というサービスを利用しながらの在宅介護を開始。

それも「家に帰りたい。父ちゃんに会いたい」と言い続ける母の希望を

叶えたかったからだ。しかし、私の介護に関する力不足で断念。

母の尊厳を守るケアができなかった。司令塔として生きてきた母にとって、

娘に命令されたり否定されたりするのが耐え難かったのだ。  

ある日職員の前で、 「あの子は私の子じゃないの。大っ嫌い、あの人

大っ嫌い」 そう言ってティッシュペーパーの箱を投げつけたこともある。 

その一方で、 「ごめんね。ありがとうね」 と、小さくなることもあった。  

それが認知症によるものだと知らなかった私はいちいち言い返しては

苦しんだ。振り返れば、睡眠を削っての排泄介助(数時間おきにパッドや

おむつ交換)や食事介助(とろみ食を作って食べさせる)は苦ではなかった。

対話の方が苦しかった。

   

母はその後、有料老人ホームを経て介護老人保健施設(通称・老健)へ入所した。

現在は療養型病院に入院中だ。 父は22年6月から有料老人ホームで

暮らしている。面会に行くといつも「ここはどこか」と聞く。私は大げさな

表情で「ここはキレイでいいねぇ! お父さまのお部屋、最高!」と

笑って返す。(おぉ、そうか。それほどでも)という顔になる父を見て安心する。

その繰り返しだ。

 ■ 施設選びできなかった  

私は父と母を穏やかに在宅で看ることができなかった。施設選びも正しく

できなかった。グループホームと特養の違いすら知らなかった。何をいつ

どう選ぶのか。誰も教えてくれなかったし、自分が、何がわからないかも

わからなかった。動いてみなければ想像できない。それが介護だと思う。

「事業所・施設選び」を簡単にまとめた。あくまでも私の体験によるもので

あることを理解した上で見てほしい。  たとえば福祉用具の自費レンタル。

父は、有料老人ホームに入居した当初は自立歩行ができていたが、

トイレに転倒防止のポールをつけた。車椅子仕様の広いトイレは便器に

座った時、正面につかめるものがないからだ。レンタル代(月々7千円ほど)

は全額負担となった。理由は、施設入居者は施設内で介護保険適用枠を

100%使っているため、介護保険が使えないからだ。週1回の

訪問リハビリと、週4回の訪問マッサージ、施設に出入りする訪問歯科医も

訪問医も、全部自分の意思で探し、選んだ。訪問日にはホームに足を運び、

できるだけ立ち会い、様子を聞く。変化があればすぐに対応策を考える。

その距離感は在宅介護とさほど変わらない。 4年前に入所した特養の時は、

ここまで介入はできなかった。当時はコロナ禍ということもあり、

面会も叶わず、両親が建物の中でどんな生活をしているのか、まったく

わからず常に不安だった。特養の相談員からの電話は絶えることなく、

「お母さんが全然食事をしなくなりました」と電話が入れば好物の果物を

持参し、「寒がっています」と聞けば、厚手の肌着やホカホカ靴下などを

持参した。「褥瘡(じょくそう)予防のクッションはどうしますか?」

「嘔吐していますが、病院に連れていきますか?」などなど。

一番つらかったのは転倒・転落などの事故報告の電話だった。

■ 職員との距離の取り方  

施設に入れても介護は続く。在宅介護よりは、時間的な負担は減るが、

これまで味わったことのない心的負担が加わった。  最初のうちは

職員との距離の取り方(施設によって違う)がよくわからず、ためらわず

相談やお願いをしてしまった。目が悪いので頻繁に話しかけてほしいとか、

ラジオをつけてほしいとか。そういうレベルだ。しかし、ある時職員から

「それ以上望むなら有料(老人ホーム)に行ってください」

「在宅介護をした方がよいのではないでしょうか」と言われた。  

塀の中にいる父と母が「拉致」されているような不安を覚えることもあった。

介護福祉士となり、介護の世界で働くようになった今は、そんなことは絶対に

ありえないとわかる。しかし当時は自分の態度によって、父と母へのケアが

変わってしまうと本気で恐れていた。  入所に合わせて衣類すべてに名前を

記入するのもつらかった。その後、有料老人ホームに入居してから洗濯は

すべて個々で行われるため記名は不要となり、自宅での暮らしに近づいた

心持ちになった。些細なことだが、意外にもこれは大きかった。  

そして今。ようやく、母が実家に帰る日が近づいてきた。ずっと帰りたいと

望んだ我が家。母は肺炎をきっかけに嚥下機能が著しく低下し、1年前に

中心静脈栄養という人工栄養を開始し、現在は管からの栄養で命を繋いでいる。

延命を決断した時、医者からは「年単位ではないと思う」と言われた。

寝返りは打てない。目も見えない、ただ寝ているだけの母。週1回のたった

15分の面会時、母は、枯れ木のような細い体をこちらに向けて、

絞り出すように「帰りたい」「うちに帰りたい」「お寿司が食べたい」と言った。

そうだよね。家に帰りたいよね。帰ろうね。そう言いながら母と別れた。

胸がきゅっと痛んだ。 そして今年の年明け。今度は有料老人ホームにいる

父の体調が急変した。救急搬送直後は呼吸苦がひどく、「父が逝ってしまう」

と動揺した。だが、とどまってくれた。バイタルは安定したが、

今も酸素吸入と痰の吸引が必要だ。そしてついこの前には、

再び肺炎を起こし、完全な寝たきりとなった。

今は声かけに眉だけ動かす程度で、目も開けられない。

(逝ってもいいか?) と全身で私に問うているように見える。そんな父に

私は声をかける。「苦しいね。ごめんね。でももう少し頑張ろうね」  

父がかすかに頷く。

 ■ 「家に帰らせて」の言葉  

母も、数カ月前から、薬の副作用で言葉が聞きづらくなってきた。

3度ぐらい聞き返してしまったが、先日母が私に言ったのは、

「家に帰らせて」だった。 この後、父の面会に行く旨を伝えると、

もごもごした口調ながら、大きな声で「頑張りましょう」と、父に向かって

話しかけた。私はスマホで録音をした。 今、父と母は手をとりあって、

「一緒に逝きましょう」  と示し合わせているのだ。  これまでの

「生きるため」の介護から、これからは死に向かう介護へ。悔いのない看取りへ。

母84歳、父90歳。介護最終章が始まった。家に引き取る覚悟はできている。

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