《和子は又々こんな記事を見た~》
💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦
「加害者家族」として差別され続けた男性の23年間の苦悩
「人殺しの息子」と石を投げられ16歳でホームレスに…
「加害者家族」として差別され続けた男性の23年間の苦悩とは
毎日、どこかで起きている様々な犯罪。加害者が罪を償うのは当然の
ことですが、同時に加害者の家族が差別や嫌がらせなどの被害に遭って
いるという現実があります。 「加害者の息子」として、そして同時に
母親を殺された被害者として生きて来た男性の、20年以上にわたる苦悩と
現実に密着しました。
■父親が母親を殺害「人殺しの息子」として社会から排除される日々
愛知県に住む大山寛人さん(35歳)の両腕には、刺青が入っています。
右腕には、女性の生首の絵と、母親の名前の一字を取った「美」という文字。
そして左腕には「野ざらし」という罪人が首をはねられて朽ちて骨になった
絵と、父親の名前の一字を取った「清」の文字が入っています。
今から23年前の2000年3月、寛人さんが小学6年生の時に父親の
大山清隆死刑囚は、保険金目当てに妻の博美さんを自宅の風呂で殺害しました。
殺害当日の夜、“家族で夜釣りに行き、海で溺れ死んだ”ように
見せかけるため、大山清隆死刑囚は何も知らない寛人さんを連れて車で港へ。
助手席に博美さんの遺体をのせ、寛人さんには「母親は寝ている」と
説明していました。その後、海で母親の遺体が見つかり溺死とされますが、
その2年後、寛人さんが中学2年の時に父親が逮捕されます。その時
初めて母親が殺されていたことを知ったといいます。 (大山寛人さん)
「頭が真っ白になり何も考えられなくなって、泣きわめくことしか
できなかった」 幸せだった家族は全員いなくなり、寛人さんの人生は
大きく狂っていきます。 (大山寛人さん) 「(友達の)親御さんが
『大山君の家とは関わっちゃだめだよ』と。そこからドンドン友達が
離れてしまった」 周りから「人殺しの息子」というレッテルを貼られ、
排除されていく恐怖。寛人さんはいじめを恐れるあまり、窃盗や
暴走行為など非行に走るようになりました。
■16歳でホームレスに、就職後も止まらない“世間からのバッシング”
当時、寛人さんは暮らしていた児童養護施設でどのような生活を
していたのでしょうか。 「(施設の職員が)僕にたばこを渡して、
たばこを吸わせてくれた。向こうの言い分としては、『たばこを吸わせて
やるからおとなしくしていてくれ』と。当時、本当に僕に必要だったのは、
たばこでも勉強でもなく、優しく手を差し伸べてくれる、安心させてくれる
大人の存在だったと今となっては思います。ただ当時、そういった大人は
僕の周りにはいませんでした」 高校を3日で中退すると施設からも
追い出され、16歳でホームレスに。寝泊まりしていたのは公園のトイレの
個室でした。友達からもらったバスタオルを床に敷いていましたが、
冬になるととても寒かったといいます。 「友達はみんな帰る家が
あるにもかかわらず、僕の帰る場所はここ(公園のトイレ)にしかなかった。
悲しさや寂しさで心がつぶされたことはよくあった」 2011年、最高裁で
父親の死刑が確定しました。寛人さんが働きだすと、勤務先に
「人殺しの息子だ」という電話が入って解雇されてしまうなど、世間の
バッシングは止みませんでした。今は、風俗業界で働いていますが心から
安心できる場所はないといいます。 「ここは自宅ではなく、僕がダミーで
借りている家になります。住民票を置くためだけに借りている部屋です」
実際に暮らしている場所は明らかにしていません。自宅の住所(住民票)を
置いている場所がばれて、その家自体に嫌がらせをされたり、
「人殺しの息子」といった差別的な用語が書かれた張り紙を
貼られたりすることがよくあったからです。
■“家族連帯責任”という刷り込み…「加害者家族は加害者ではない」
差別を受けることが多い犯罪加害者の家族。その支援に長年
取り組んでいるのが、宮城県仙台市にあるNPO法人World Open Heartの
阿部恭子理事長です。15年前から加害者家族の相談に乗り、
2500件以上の声を聞いてきました。寄せられたメッセージには
「インターホンや、電話の音が怖い」「何かあるとパニック状態になってしまう」
など、悲痛な叫びが綴られていました。
(NPO法人World Open Heart・阿部恭子理事長) 「日本人の感覚で、
家族連帯責任という刷り込みがすごいと思う。加害者家族はあくまで
加害者ではない。『日常生活を送る権利がある』そのように助言しています」
寛人さんは今も年に数回、故郷の広島にある母親の墓参りをしています。
心には、母親を助けられなかった罪悪感を今も抱いています。自分も連れて
こられ、母親の遺体が捨てられた港にも毎回、線香をあげています。
「パトカーや救急車が入ってくる際、その赤色灯で港が真っ赤に染められて。
あの光景というのは、現場に来るとより一層思い出します」 寛人さんは
父親が死刑になった後、その遺灰はこの海にまきたいと考えています。
広島拘置所の塀の向こうには、刑の執行を待つ父親がいます。
■「一人の人間として生きていきたい」死刑執行を前に、父の手紙を焼却
父親の大山清隆死刑囚は、62歳。死刑確定から年月が経つ中、数年前に
父親と話し合って手紙のやり取りも、面会もやめたといいます。
「(手紙や面会をやめれば)お互いの心の傷が少しでも浅くなるのではないか。
(死刑の)執行が近くなった時には、手紙や面会のやり取りを控えようと
(父親から)話があった」 これまで、父親とやりとりをした手紙は
600通以上にのぼります。便せんには、寛人さんを気遣う言葉や、殺害した
妻への謝罪の気持ちなどが綴られています。本心では父親に生きていて
ほしいという思いもありますが、「今後は一人の人間として生きていきたい」
という思いを込めて、区切りをつけるためにも、自分の手で焼却処分をする事に
決めました。「本当に身近な助け合い一つで、変わるものだと僕は思う。
(自分の訴えで)差別の実態というものを知ってもらって、数あるうちの
ほんの一つかもしれないが、差別を行う人々の考えが変わることにつながればと思う」
「人殺しの息子」と石を投げられ、ひとときも安心できなかった23年間。
加害者家族への差別の実態を、社会に問い続けています。
💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦💦