🧿 事件があった住宅の前。呼び鈴を押しても返答はなかった。
《和子は又々こんな記事を見た~》
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「母ちゃんごめん。冷たかっただろう、寒かっただろう」
4月の朝、90歳の母は自宅で「凍死」した 同居していた62歳の息子が
法廷で語った悔恨
一般社団法人共同通信社 によるストーリー
昨年4月下旬、大阪市に住む90歳の女性が自宅で息を引き取った。
死因は「凍死」。駆けつけた警察は、同居していた62歳の息子を
保護責任者遺棄の罪で逮捕した。都会の片隅でひっそり暮らしていた親子が迎えた
最悪の結末。なぜ母親は自宅で凍えながら命を落とさなければ
ならなかったのか。大阪地裁で開かれた公判に出廷した息子は、社会から
孤立し、誰にも頼ることができないまま追い詰められたいきさつを語った。
🧿 大阪地裁の刑事裁判法廷=
▽体重38・7キロ、骨まで達する床ずれ
法廷で被告人席に座る息子は、大柄な体を縮こませてうつむいていた。
短く刈り込まれた白髪交じりの頭に黒縁眼鏡を掛けた姿は、
どこにでもいる中年男性に見えた。
公判の冒頭、検察官は、事件のあらましをこう説明した。
親子は、大阪市南部にある築60年木造2階建て長屋の一角で
2人暮らしだった。2022年2月中旬ごろから母親が寝たきりになり、
布団の中にふん尿を垂れ流す状態になった。与えられた食事は口にしていたが、
固形物を飲み込めなくなるほど衰弱。4月下旬の朝、息子の119番で
駆けつけた消防隊員は、居間の布団の中で亡くなっていた母親を発見した。
死因はふん尿でぬれた状態が続いて体温が奪われたことによる凍死。
身長約152センチだった母親の死亡時の体重は38・7キロで、後頭部の
床ずれは骨まで達していたという。
検察官は、適切な医療措置を取っていれば母親は生き永らえることが
できたと指摘し、事態を放置し続けたことは
「拷問といっても過言ではない」と激しく非難した。
🧿 事件が起きた住宅の周辺=
▽病気を繰り返す息子に「もう仕事せんといて」
起訴内容をマスク越しのくぐもった低い声で「間違いありません」と
認めた息子は、その後の本人尋問で、自身の生い立ちと事件に至るまでの
経緯をとつとつと語り始めた。
1959年、4人家族の次男として生まれた。元々人と話すのが苦手で、
内気な性格。小学生の時にいじめに遭って以来、人と関わることを避けてきた。
大学は理工学部に進学したが単位を取れずに中退し、コンピューターソフト
開発やゲーム機製作、ディスカウントショップ勤務など、職を転々としていた。
転機は50歳を前にしたある朝に訪れた。目を開けようとしても、まぶたが
開かない。最初は睡眠不足だと思ったが、心配して駆けつけた母に促されて
病院に行くと、目元の筋肉に力が入らなくなる「重症筋無力症」と診断された。
「そのうち治る」と話して仕事に行こうとしたが、見かねた母に引き留められ、
実家に戻ることになった。父に先立たれた母と同居後も、警備員をしたり
印刷工場に勤務したりしたが、いずれも交通事故や病気で数年のうちに
退職した。最後に働いていたのは、55歳の時だった。倉庫内作業員を
していたが、腎臓が炎症を起こす腎盂炎にかかり、入院して手術を受ける
ことに。退院はできたものの、母親は「もう仕事せんといて」と頼みこんできた。
法廷で息子は「子供の頃から体が弱かった私を気遣ってくれた。
優しい母でした」と振り返った。それからは実家の2階にある4畳半の自室に
こもり、一日中パソコンでゲームをする日々が続いたという。
1階で暮らす母とは、食事の時にテレビを見ながら会話する程度だった。
母親が外出するのは、通院や買い物くらい。収入は月10万円ほど支給される
母親の年金だけで、それ以外は離れて暮らす兄からもらう小遣いが頼りだった。
「母ちゃんごめん。冷たかっただろう、寒かっただろう」4月の朝、
90歳の母は自宅で「凍死」した 同居していた62歳の息子が法廷で
語った悔恨
▽突然の寝たきり生活、「母だって恥ずかしいところを見られたくないはず」
2人の生活に変化が訪れたのは、2021年11月ごろのことだ。トイレに
行くため1階に降りると、風呂場にいた母親が「立てられへん」と助けを求めた。
様子を見に行くと、転倒した母親がその場で動けなくなっていたという。
母親はそのまま自力歩行が困難になって一日の大半を寝床で過ごすようになり、
急速に弱っていった。買ってきた弁当は食べていたが、量は日に日に
減り、箸で口に運ぶことさえできなくなった。
実家を訪れた兄に、玄関先で相談したことはある。兄は「立てなくなったなら
車で病院でもどこでも連れていったる。いつでも言ってや」と答えた。
ただ、大人1人が通るのもやっとの生活道路を車は通れず、家の中は狭くて
段差も多い。車に乗せることすら難しいことは兄も分かっているはずなのに。
逆に突き放されたような気持ちになった。
証人尋問で出廷した兄はこの時のやりとりについて後悔を口にした。
「母がそこまで弱っているとは思わず、まるで人ごとのように弟だけに
責任を負わせてしまいました。亡くなった責任の半分は僕にもあると思います」
年が明けた2022年2月、母の布団の中にふん尿を見つけた。
それまで自分でおむつをはいて処理していた母はごまかすように笑った。
布団をめくると「嫌や、寒い」と大きな声で押さえた。
「母だって息子の自分に恥ずかしいところは見られたくないはず。
暖かくなったら片付ければ大丈夫だろう」。そう思い、ベッドの近くに
消臭剤を置いてごまかした。「寒い」とくり返す母のために暖房も入れた。
体に着いたふん尿が体温を奪っているとは思いも寄らなかった。
🧿 息子が相談に訪れた区役所
▽ふん尿で汚れていく母の体に目を背け続けた
2月23日、もはや自分の手に負えないと思った息子は行政の手を借りよう
と区役所に相談に行っている。だがその日は祝日で閉庁日だった。
世間との関わりを絶って7年。平成から令和の世になり天皇誕生日が
改められたことも知らなかったのだ。
家に帰ってインターネットで地域の支援センターを調べると、
民間の介護施設が併設されていると分かった。
「相談したらそのままそこに入ってしまい、高額な費用を請求されるのでは
ないか」。そう思い、頼るのを諦めたという。
食べ物を口にできる間は生き延びられると信じ、耳をちぎったパンや
レトルトのおかゆを母の口に運んだ。だが、4月に入るとそれもほとんど
受け付けなくなった。母の体がたまったふん尿で次第に汚れていくのに
うすうす気づいていたが、「もう少し暖かくなったらきれいにしてあげよう」と
目を背け続けた。臭いはいつの間にか気にならなくなっていた。
劣悪な生活環境でも母親は息子に何かをしてほしいと頼むことはなく
「女の子でもないのにごめんね。ありがとう」とねぎらう声をかけたという。
その日の朝は、前日から降り続けた雨が上がった曇り空だった。起き抜けに
いつものように水をあげても飲み干す様子がない。肩を揺すっても反応がなく、
鼻に手を当てると息をしていなかった。すぐに119番をしたが、
すでに事切れた後だった。
▽「母が死ぬことを考えたくなかった」
事件の経緯を聞き終えた弁護人は、法廷で息子に質問を投げかけた。
♦️ ―なぜ病院に連れて行かなかったのですか。
🔷「体が汚れている母を連れて行って、ちゃんとした介護ができていないと
責められるのが嫌でした」
♦️ ―お母さんに死期が近いとはなぜ思わなかったのですか。
🔷「なんとなく思っていました。でも、母が死ぬと
考えたくなかったんだと思います」
♦️―悲惨な最期を迎えることになったお母さんはあなたのことを
どう思っていると思いますか。
🔷「私がちゃんと生きていけるか心配していると思います」
♦️―社会に戻った時にしたいことはありますか。
🔷「母のお墓参りです」
裁判長に「最後に言いたいことは」と問われると、抑え込んでいた感情を
一気に吐き出すように、体を震わせながら言葉を絞り出した。
「兄ちゃん、母ちゃんとちゃんと別れる機会をなくしてごめん。母ちゃん、
ごめんなさい。つらい思いをさせてごめんなさい。冷たかっただろう、
寒かっただろう。ごめんなさい…」
法廷には、被告の嗚咽だけが響いた。
🧿 大阪地裁の刑事裁判法廷の証言台
▽裁判長がかけた言葉
約1カ月間の審理を終えて言い渡されたのは、懲役3年、執行猶予5年の
判決だった。裁判長は判決理由で「死亡する少し前まで介護の必要性を
感じず放置したことは無責任で、内向的な性格の影響を過大に見るのは
適当ではない」とし、その上で「不十分ではあるが食事の介助を続け、
1人で母に向き合っていたことや、兄が寛大な刑を望んでいることを
考慮して、5年間の執行猶予期間を付けた」と説明した。
「直ちに服役するのではありませんが、紙一重の判決でした。
尊いお母さんの命を奪ったことを十分に反省し、新しい人生を生きてください。
今日はあなたが生まれた日ですね」
この日、63歳の誕生日を迎えた被告は小さく頭を下げ、ゆっくりと
被告人席に戻っていった。
弁護側、検察側双方が控訴せず、刑は確定した。
その後、記者は被告が現在身を寄せているという兄に連絡を取ったが
「弟が電話に出ないで欲しいと言っている」というショートメッセージが
送られてきて以降、連絡が取れなくなった。
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