子供に恵まれなかった40代夫婦のもとに・・・

  

《和子は又々こんな記事を見た~》

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    夫婦に臨時収入をもたらした

                          愛犬のまさかの才能とは

  

「レオ、いくよ!」

風を切るように走り出した小さな背中を追いかけながら、初美は

スニーカーで土を蹴った。初夏の公園は緑がまぶしく、湿った草の香りが

かすかに鼻をくすぐる。早朝のドッグランにはまだ人が少なく、伸びやかに

走り回れるこの時間が、初美は好きだった。

愛犬のレオはジャックラッセルテリアのオス。ひとたび走り出せば、

全身がバネのように弾み、野生に戻ったかのように躍動する。

レオが駆ける姿を見るたび、心がふわりと軽くなっていくのを感じた。

「すごい! すごいよ、レオ! この調子なら、次も入賞間違いなしだね!」

初美は現在、41歳。夫の大祐との間に子どもはいない。

結婚当初から妊娠を望んでいたが、思うようにはいかなかった。

不妊治療を始めたのは35歳のころ。病院と家を行き来する日々はまるで

出口のない迷路を歩いているようで、気づけば心も体もすり減っていた。

そして初美が40歳を迎えた去年、夫婦で話し合いの末、治療を終える

決断をした。もう十分頑張ったから、と大祐は言ってくれたけれど、

初美はしばらく気持ちの置き場が見つからなかった。

そんなときに、出会ったのがレオだった。友人に誘われて参加した譲渡会で、

不安げに箱の隅に丸まっていた子犬。お世辞にも人懐っこいとは言えない

その態度に、なぜか惹かれた。もしかしたら、気が塞ぎがちな自分自身と彼を

重ねていたのかもしれない。一緒に暮らし始めたことはごく自然な流れだった。

とはいえ、レオとの暮らしは、戸惑いの連続だった。いたずらはするし、

散歩では引っ張られるし、家具の角は噛み跡だらけ。だが、時間が経つにつれ、

レオの存在が初美の心を満たしていった。

「この子が家に来てくれて、ほんとうによかったよな」

大祐はよくそう言いながらレオの頭を撫でる。そのたびにレオは少しだけ

気取ったような顔をして、彼の手に鼻をすり寄せるのだ。

子どもを授かることは叶わなかったが、代わりに得たこのあたたかい時間が、

初美にとって何よりも大切なものになっていった。 「はい、よくできました!」

初美は膝を折り、駆け寄ってきたレオを抱きとめる。耳がぴょこんと跳ねて、

舌を出した顔がなんとも愛らしい。息を切らした彼の胸の鼓動と、

初美の鼓動とが重なる。

愛犬が思わぬ才能を発揮

   

「次、中トロいっちゃおうかな」

大祐が、楽しげに言いながら箸を持ち上げた。

テーブルの上に並ぶ寿司下駄。そして対面キッチンの中には寡黙な

寿司職人がいる。いわゆる出張寿司と呼ばれるサービスだ。

「うわ、この中トロうま。もはや大トロと言っても過言ではないかも」

「何それ、さすがに過言でしょ」

「いやいや、ホントだって。初美も食べてみな」

そう言ってにこやかに笑う大祐は、結婚して10年以上経った今も、

変わらず穏やかで優しい。 会社員夫婦の初美たちは、臨時収入が入ると、

こうしてたまの贅沢を楽しんでいる。その臨時収入とは飼い主の指示のもと

愛犬が障害物競争を行い、そのタイムなどを競う「アジリティー」と呼ばれる

競技の大会で入賞したことによって得られた賞金だった。

きっかけは、ほんの偶然だった。近所に暮らすドッグラン仲間に誘われて

気まぐれで大会に出場することになったのだ。まさか入賞できるなんて

思ってもいなかった。だが、初美たちの息の合った動きに、観客から拍手が

起こり、表彰台では立派な賞状と、想像以上の金一封が手渡された。

「すごいじゃないか! 初美、やるなあ」

何より大会から帰って報告したときの大祐の声。誰かに褒められる経験は

久しぶりだった。 それ以来、初美はレオとのトレーニングにのめり込んで

いった。朝のドッグランで走ったり、室内での簡単なステップ練習、

たまにはYouTubeで新しい技を学んでみたり。

もともと運動は嫌いではなかったし、努力した分だけ結果が出るのが

性に合っていたのだろう。レオと過ごす時間がますます充実したものになり、

心の隙間を埋めてくれるようだった。彼もまんざらではない様子で、

楽しそうに初美に付き合ってくれている気がした。

「今度の大会は、もうちょっと上を狙うつもりなの。優勝も夢じゃないかも」

「いいね、また寿司奢ってもらおうかな」

大祐と冗談を言い合うたび、胸の奥にふわっとした灯りがともる。

会話が途切れたのを見計らって寿司職人が「次は何になさいますか?」と尋ねた。

初美は少し考えてから言った。「じゃあ、玉子をお願いします」

答えを聞いて、くすっと笑う大祐。「お子さまか」

「いいの。甘いやつ、好きなんだから」

小さな贅沢を、2人で分け合う夜。

レオはといえば、リビングのクッションに丸まって、おとなしく眠っている。

きっと夢の中でも跳ねまわっているに違いない。「レオ、次も頼んだぞ」と、

大祐がぼそっと言った。

「任せて。次も金一封、もらってくるからさ」

初美は笑って応じながらも、華々しく表彰される自分とレオの姿を

思い浮かべずにはいられなかった。

ほかの犬がぶつかってきて……

   

大会当日の朝、初美はいつもより少し早く目を覚ました。

窓の外には、雲ひとつない晴れ渡った空。天気は味方してくれたようだ。

「レオ、起きて。いよいよ今日は本番だよ。絶対に勝とうね」

声をかけると、レオは寝ぼけまなこをぱちぱちと瞬かせ、それから小さく

伸びをした。いつもと変わらない様子に、初美は安心する。

会場は郊外の広大なドッグラン。テントが並び、色とりどりのゼッケンを

つけた犬たちとその飼い主が続々と集まってくる。

出場者用の控えエリアには、顔なじみの飼い主たちもいた。

「坂本さん、今日も頑張ってくださいね」

「レオくん、前回すごかったよね。今回は優勝狙い?」

声をかけられるたびに、緊張と高揚が入り混じった気持ちになる。

レオの首にゼッケンをつけて、初美は息を整えた。予選前のウォーミングアップ、

軽く体を動かしてコースに慣れさせる時間だ。「レオ、ゆっくりでいいからね」

初美はリードを外し、いつものように一緒に走り出す。トンネル、

ハードル、スラローム。 レオは真剣な顔でこなしていく。

だが、コーナーを曲がろうとしたそのときだった。視界の端から勢いよく

飛び出してきた他の犬が、レオの脇腹に突っ込んだ。レオは鳴き声を上げて

転がり、初美は慌てて駆け寄った。

「レオ! 大丈夫!?」

   

レオはすぐに立ち上がったものの、左前足をかばうような仕草を見せる。

初美は心臓が跳ねるような不安を感じながら、そっと触れてみた。

少し熱を持っている気がする。何より先ほどまでのあの機敏な動きは、

明らかに失われていた。 係員に事情を伝え、応急処置の氷をもらいながら、

初美は葛藤していた。 レオの状態を見れば、いつも通りに走ることが

できないのは一目瞭然だ。だが棄権してしまえばこれまでの努力が無駄になる。

なにより賞金だって手に入らない。そんなことはレオだって

望んでいないはずだ。 レオは初美の顔をじっと見ている。初美は、

レオの目を見つめ返しながら息を吸い込んだ。

「レオ、走れるよね……? 今日だけ我慢しよ……」  「初美」

そのとき、背中から聞き慣れた声が届いた。

振り向くと、大祐が立っていた。知り合いの誰かから、

レオの状況を聞いたのだろう。無理に出場させようとしていた

初美の表情を一目見るなり、彼は言った。

「……本当に、それでいいの?」

夫に諭された初美はいつしかレオのためではなく、自分の欲にとらわれて

しまっていたことに思いいたるのだった。その後、獣医の元で治療を受けたレオ。

レオはまた、初美と共に駆け回ることができるようになるのか。

                                                                                     ♾️♾️♾️ つづき ♾️♾️♾️

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【場を察知 呆けたふりして なごませる(シルバー川柳)】