《和子は又々こんな記事を見た~》
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妻との思い出のつまった「最高の料理」は?
限界だ
パチンコ屋の喧噪とランチ時の店の賑わいは似ても似つかない。
だが無作為に行き交う音のなかに身を置いていると安心感があった。
幻想だと分かっていても安心感を抱かずにはいられなかった。
麻美を怒鳴りつけたあの日から3日が経っていた。その間、
拓海は相も変わらず厨房に立ち、何度も調理を試みていた。
だが狂っているのは料理の腕ではなく拓海自身の感覚のほうなのだから、
何度やっても結果は同じで満足のいく味に仕上がっているとは思えなかった。
もう限界だった。所詮、自分が磨いてきたつもりだった料理の腕なんてものは
たかが知れていたのだろう。聴覚を失っても曲を作り続けたらしい
ベートーヴェンのようにはいかないのだ。拓海は厨房を片付け、諦めに似た
感情を引きずりながら普段は全くやらない駅前のパチンコ屋に逃げ込んだ。
自棄になって辿り着いたのがパチンコ屋なんて、50歳を過ぎて
中坊みたいなことをしている自覚はあったが、他にこのやるせなさを
濁す方法が思いつかなかった。適当な空き台の前に座り、サンドに
5,000円札を入れ、手当たり次第にハンドルを回した。左手側にある
残金の表示はボタンを押すごとにあっという間に出玉に変わって減っていった。
やがて2万5,000円を使い切ったところで、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。
拓海は残った出玉を缶コーヒーと引き換え、店を出てすぐにプルタブを引いた。
飲んだ缶コーヒーはそれらしい香りすら感じられず、
まるで粘つく砂糖水でも飲まされているようだった。自販機横のゴミ箱に、
まだ半分くらい残ってい中身ごと缶を捨てた。
そのまま真っ直ぐ家に戻る気にもなれず、ふらふらと夕暮れの街を
徘徊してはみたが、ばったり常連客の田野井と出くわしてしまった。
いつ店は再開するんだ?
「岡嶋さん、元気してたかい? いつ店は再開するんだ?
俺、〈キッチン・オカジマ〉のハンバーグ、また楽しみにしてるからよ」
返事を曖昧に濁した拓海だったが、また常連と出くわしてはたまらないと
思い、誰にも見つからないよう息をひそめ、うつむきながら歩調を速め、
家路を急いだ。しかし家の前まで来て、拓海の足ははたりと止まった。
誰もいないはずの一階の店の明かりが窓ガラスからこぼれていたからだ。
2階の玄関へ続く階段に向かいかけていた身体の向きを変え、窓から店内を
覗きこむ。もちろん店内に客はいない。拓海が扉の鍵を開けてなかへ入ると、
入店を知らせる鈴の音色に乗ってケチャップの香ばしい匂いがした。
「あら、おかえり」と厨房から顔を出したのは、麻美だった。
「おい、あれほど素人には無理だって――」
「いいからいいから。ちょっと座ってて。あなた、最近試食ばっかりで
ちゃんと食べてないでしょ?」
麻美は眉をひそめた拓海を強引にカウンター席へ座らせて厨房へと戻っていく。
はじめは大人しく待っていたが、時折厨房から聞こえてくる大きな物音に
堪らなくなって立ち上がり、なかをのぞきこむ。
「おい、なにやってんのさ」
「大丈夫。はい、ほらできた」
拓海は麻美に差し出された皿をまじまじと見下ろす。平皿の真ん中では、
ウインナーやピーマンなど食べ応えのありそうなサイズで切られた具が
ごろごろと転がるナポリタンが湯気をあげていた。
「不服なのは分かるけど、まずは食べてみて」
麻美は再び拓海をカウンター席に座らせる。拓海はしかたなくフォークを
手に取って、ナポリタンを口へと運んだ。
瞬間、甘じょっぱく香ばしい味わいが舌の上で広がった。
「どう? けっこういい線いってると思うんだけど……」
拓海はもうひと口、ナポリタンを食べた。嗅覚が失われたせいでどこまで
再現されているのか確証が持てたわけではなかったが、
このナポリタンからは確かに〈オカジマ〉の味がした。
「バターか?」
「そう。パスタと和える前に、具材だけまずはバターで炒めるんでしょ?
それに、今の時期は仕上げのオリーブオイルに岩塩を溶くのよね」
麻美はそう言うと、エプロンのポケットからB6判の小さいノートを
取り出した。表紙のくすみ具合から、それが長い間使われてきたものだと
一目で分かる。
「あなた、感覚に頼って調理するでしょ。プライドに障ると思ったから
言ってなかったんだけど、ひょっとするといつか役に立つかもしれないと
思って、レシピのメモ、取っておいたの」
麻美は得意げに笑った。手渡されたノートには、各メニューの基本的な
レシピだけではなく、季節や天気によって少しずつ加えていた微妙な
アレンジについてまで書き込まれていた。
「どうしてもっと早く――」
「だってあなた、全然私の話聞いてくれなかったじゃない」
悪かった
拓海は言葉を呑んだ。鼻が利かなくなり、これまでのように料理人として
振舞うことが難しくなり、1人で悲劇に酔っていたのだろう。
こんなにも近くで、自分を支えようとしてくれている存在がいたのに。
「……悪かった」
拓海はやっとの思いで吐き出したが、麻美は「何よ急に。気味悪いわ」と
冗談めかして笑った。
「覚えてる? このナポリタン、私が子宮筋腫で子どもができにくいって
分かったとき、2人で楽しくやっていけばいいってあなたが作ってくれたこと」
「……当たり前だろ、覚えてる」
「だからってわけじゃないけど、このお店も、また改めて2人で
やっていきましょうよ。これまでそうやって頑張ってきたみたいに」
麻美は照れくさそうに笑った。拓海はナポリタンを頬張った。
「本当に、美味いな……」
「当たり前でしょ。あなたのレシピなんだから」
思わずこぼした呟きの意味を、麻美は見事に取り違えていたが、
拓海は訂正することなく、こぼれそうになる涙を堪えていた。
♾️♾️♾️ おわり ♾️♾️♾️
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