《和子は又々こんな記事を見た~》
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店主を襲った「謎の不調」の正体とは
鍋のなかのハヤシライスのルーをかき混ぜる。ほんのりと赤みを帯びた
深い茶色のルーのなかで、とろみを帯びた玉ねぎや食べ応えがあるサイズに
切った細切れの牛肉が泳いでいる。拓海はおたまですくい上げ、顔を近づけた。
本来ならば濃厚なルーのなかにトマトの甘みと酸味が感じられるはずだが、
どれだけ鼻を近づけても、ルーを口に含んでみても、拓海の味覚は
その繊細な味わいを捉えなかった。
「ダメだ」
独りでに呟いていた。おたまを鍋のなかに沈めて火を消した。
頭に巻いていたバンダナを外し、腰のエプロンを剥ぎとり、厨房から出て
カウンター席に腰を下ろす。 拓海は締め切られた店の扉を見る。
いつまでも店を開けないわけにはいかない。二階の住居と合わせて
持ち家なので家賃はないが、こうしてリハビリがてらの試作を
繰り返しているだけでかかる水道光熱費や材料費は、2、30万はくだらず、
容赦なく店の経営と家計を圧迫する。 そもそもただ生きているだけで
拓海と妻の麻美が2人で暮らすための生活費だってかかるのだから、
店を閉めていればそう遠くないうちに生活は立ち行かなくなるだろう。
だが納得のできない味のままで店を開けることは、父から受け継いだ
洋食屋を三十年以上切り盛りしてきた拓海のプライドが許さなかった。
体調は問題ない。むしろ二週間しっかり休んだ分、入院する前よりも遥かに
元気になっている自覚はある。だが、拓海の身体はすっかり
変わってしまっていた。
頭痛の正体
脳腫瘍だった。慢性的に感じていた鈍い頭痛が気になって、近所の町医者に
行ってみると、大学病院での検査を勧められた。仰々しいなと思っていたら、
検査入院の結果、脳腫瘍だと診断された。医者から聞いたときはさすがに
ショックが大きかったが、幸い良性の腫瘍らしく、薬物療法と経過観察で
問題ないとのことだったし、実際に処方された薬を飲み始めたら頭痛は
嘘のように収まっている。 だが問題がないというのは、普通の生活を
送る上での話だ。料理人として生きる拓海には大きな問題があった。
生命線である嗅覚が、まったく利かなくなってしまったのだ。
思えば兆候はあったのだろう。店の常連からは最近、味が少し濃くなったと
言われていた。そんなわけないだろ、うちの味に文句か? と笑って
答えていたが、あのときから異変は起きていたのだろう。
これまで感覚に頼り切って調理を続けてきた拓海の腕は、嗅覚1つで
取り返しがつかないほどに狂い、もうかつての味を再現できなくなっていた。
引退も考えた。だが拓海に後を継げる子どもはいない。拓海が引退すると
いうことはそのまま、この店の閉店を意味している。
「おはよう。相変わらず早いのね」
声がして振り返ると、二階の住居から降りてきた麻美がいた。麻美は深く
息を吸い込むと。「いいにおい」と呟いた。
「変な気遣いはよせよ。ダメなんだ。やっぱり匂いが分かんねえようじゃ、
味だって分かんねえんだ」
拓海は吐き出した。思えば、24歳のときに結婚してから今まで麻美の前で
弱音を吐くようなことはなかったはずだ。情けない自分に拓海は
うんざりしていた。
手術を受けてみようと思う
「なあ、麻美。やっぱりさ、手術受けてみようと思う」
拓海が言うと、麻美はいつもにこやかな頬をわずかに緊張させた。麻美が
何を言おうとしているのかは拓海にも分かったが、麻美は拓海の置かれた
現状をよく分かっているからこそ、すぐには口を開かなかった。
「このままじゃいつまで経っても店を開けらんねえ。
手術して治るんだったら、それしかないと思うんだ」
拓海は言い聞かせるように拳を握ったが、麻美は首を横に振った。
「お医者さんも言ってたでしょ。無理に手術する必要はないって。それに
リスクもあるって。そんなイチかバチかの手術なんていや。
万が一のことがあったらどうするの?」
「じゃあどうしろって言うんだよ。このままじゃ店は開けらんねえ。
今更別の仕事なんてできるわけもねえし、野垂れ死ぬだけじゃねえか」
「あなたが調理できないっていうなら、私が代わりに厨房に立つわよ。
あなたみたいに上手くいくかは分からないけど――」
「素人の下手マネでやってけるような店じゃねえんだ!
何寝ぼけたこと言ってんだよ」 思わず怒鳴りつけていた。不安になって
視線を滑らせれば、麻美は驚いた様子で、あるいは怯えた顔で、黙り込んでいた。
すまん、と謝るべきなのに、拓海もまた言葉を吐き出すことができなかった。
麻美に何の非もないことは分かっている。強いて言うなら
運は悪かったのかもしれないが、もちろん医者が悪いわけでもない。
悪いのはきっと、これまで努力し、築き上げてきたものにすがり、
プライドを捨てられない自分自身だった。
「……一人にしてくれ」
ようやく吐き出せた言葉は、これまで口にしたどんな言葉よりも弱々しく
広がり、半世紀以上続いてきた店の壁に、机や椅子に、拓海の声は
響くことなく吸い込まれていった。
拓海はなんとか昔の味を取り戻すべく、厨房に立ち続けるのだが、
変わってしまった感覚が元に戻ることはなかった。やるせない思いを抱え、
拓海は逃げ込むようにしてパチンコ店に駆け込むのだが・・・
♾️♾️♾️ つづく ♾️♾️♾️
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