母の遠距離介護の経験を経て、始めた私の終活
身近に起こる父母などの介護、みなさんどんな選択をしていらっしゃいますか。
私は子供たちも独立し、介護に時間を割くことができたのは幸いでした。
母の病気、日々の過ごし方、介護してくれる人への気遣いなど。
そうした中での私の経験を聞いてください。
母の病状
母は50代で盲腸、その後も心臓の手術をし、1年後には
胆石の手術を受けています。60歳半ばには、
WPW(ウォルフ・パーキンソン・ホワイト)症候群という心臓の病気で
大手術を受けました。長年苦しんできた不整脈がかなり改善され、
普通の生活を続けることができました。父は慣れない家事で、一生懸命に
母の手助けをしていました。
78歳のときに父を亡くし、80代になって主幹狭窄症で両手の平を切開しての
手術を受けました。その後も、庭仕事や俳句、和紙のちぎり絵などをして
元気に一人暮らしを続けていました。
遠距離要介護の始まり
91歳まで何の問題もなく過ごしていましたが、次第に手がしびれて包丁が
うまく使えない、腰が痛いなどなど言うようになりました。気になるので
月に2回、1週間ずつ世話をしていました。
聴覚の具合が悪く、通院回数が多くなり、体力的にもかなり苦痛だったと
思います。家計簿の数字がうまく書けなくなると、煩わしいと思える銀行、
証券、もろもろの家庭事務は私に一任されたことで、弟妹のねたみを
かうことになり、つらい思いをしました。
要介護の段階ですから、一人でほとんどのことはできていました。脚は
しっかりしているので、一緒に散歩に出たり、庭の草取りをしたりと、
ともに行動できました。過ぎた日の思い出話もたくさんしました。
本格的遠距離介護の始まり
92歳の春頃、不整脈がひどくなって入院。誤嚥肺炎になって2度目となる
入院です。93歳の冬、誤嚥肺炎で入院中「もう病院にいるのは嫌だから、
自宅で療養したい」と言い出し、ドクター、介護士さんたちと相談の上、
訪問診療と訪問ヘルパーに切り替えることになりました。
94歳の1月に退院。そこから本格的な自宅介護が始まりました。妹と
1週間交代です。妹は新幹線、私は高速バスとJRで通いました。
父の介護の反省から、将来母のときに役立つようにと
すぐホームヘルパーの講座を受け、2級の資格を取っていましたので、
(世の中の人には一度も役立てていませんが)今回は少し落ち着いて
介護にあたることができました。
自宅では、おむつでなくできる限りポータブルトイレを使用。
横になる時間が多いので、足が弱っては困ると本人は言います。
母のプライドもあったと思います。食事のメニューは、いつも変えることで
残さず食べてくれました。ベッド上での小さな運動も、欠かさず努力して
くれました。あるとき母は「ずっとベッドに臥せっている病人は、
どんなふうに日々を過ごしているのかしら?」と問うてきました。
これを機に、私は母が有意義な一日一日を過ごせるよう、気を付けなければ
ならないと思いました。ずっと続けてきた趣味の俳句を口ずさんだり、
私の句を添削したり。近年始めたパステル画を描いてみたいと言うので、
庭に咲いたバラなどを描いて楽しんでくれました。30分もすると
腰が痛くなって横になり、また起きて描くことを繰り返して完成しました。
耳もかなり難聴になり、補聴器を付けていても聞き取りが難しく
なってきたので、B5サイズの電子黒板を使い会話を続けました。母は
しゃべれますから、黒板を使うのは私です。
母が目を閉じているときも、できるだけベッドのそばで読書や手仕事を
するようにしました。目覚めると、すぐそばに寄り添っている人がいれば、
母はずいぶん安心した顔をして、「あら、そこにいたのね」とうれしそうでした。
ベッドのそばに呼び出しベルを置き、私がどこにいても受信できるように
しておきました。これはかなり役に立ちました。耳が遠くなってからは、
電話より携帯(孫からのプレゼント)で孫たちとメール会話を楽しんでいました。
母の終活準備
私も今、終活なるものを始めようとしています。母は私たちが困らないようにと、
着々とすべての準備をしてくれていたことに感嘆しました。
- 葬儀場を決め予約金を払っていた(その場になって慌てないため)
- 生前戒名をもらっていた(自分の死後、どんな名前で供養されるのかを
知っておきたかったため)
- エンデングノートを作成していた
- 公証役場の遺言書を作成していた
- 見舞いに来た子供たちに要るものを持ち帰るようにと勧めていた
最後まで思考能力は劣ることなく、しっかりしていたのは本当に幸いでした。
亡くなる2か月前から、ときどき、「もういいでしょ?」と問うてきました。
これは、もうあの世に行ってもいいでしょ? と私に問いかけていたのです。
8月近い頃にも問いかけてきたので、私は「この暑いときは何かと
大変だから、もう少し涼しくなるまで待って」と答えて、2人でクスりと
笑いました。母は困った顔をして、「もう早く逝きたいわ」と。
それから4週間後、母は朝の洗顔と化粧を済ませ、ほんの少し食事を
摂りました(このときすでに意識がもうろうとしていた)。それでも排便を
済ませ、ほっとしたのか、横になり目をつむっていたので、私は別の部屋の
掃除をしている間に、眠るように逝ってしまいました。
すぐに気がついたので、脈を取り、血圧を測り、時間を確認し、医師に
連絡を入れた後は母の手を握り、思いっきり泣きました。
幼子を抱えて戦後の不自由な生活を乗り越え、父とともに3人の子供を
育て、大学教育の機会を与えてくれたことは感謝です。
私なりに親孝行ができたかどうか分かりません。母のように賢く、
この世での区切りができるよう努力しようと思います。
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