横浜市寿地区で、独居高齢者の看取り医療に取り組むポーラのクリニック院長、
孤独死と隣り合わせの寿でも、感謝の言葉とともに穏やかな死を迎える人が
少なくないといいます。最終回は、「これでいい」と思える最期の迎え方に
ついて伺いました。
新型コロナウイルスに感染して突然亡くなったAさん
今度は「最期の迎え方」について、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
今、新型コロナウイルスが猛威を振るっていますが、実は私の患者さんの
一人もこの感染症による肺炎で亡くなりました。横浜港に入港した
クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」に乗船していた方で、
享年87歳。仮にAさんとしましょう。
Aさんは寿の住民ではありませんでしたが、2019年12月、わざわざ
私のクリニックにやって来られました。「先生にかかりつけ医になって
いただきたい」「最期の看取りをお願いしたい」と。日本尊厳死協会に
入っており、協会の会報に載った私の記事を読んで、受診を決めたとの
ことでした。Aさんは心臓病や喘息など、多くの持病を抱えていました。
年齢も年齢だし、もう体が言うことをきかない。管理に手の掛かる郊外の
持ち家を処分し、駅から至近の便利な場所に新たな居を構え、新しい
かかりつけ医も見つけました。いずれやって来る最期の時に備え、
いわゆる“終活”をされていたのですね。そして、「あとは妻とゆっくり
船旅でも……」ということで、ダイヤモンド・プリンセス号の乗客となったわけです。
生と死は、コントロール不能な世界
前回、人生における起承転結の話をしました。起承転結の“起”はこの世に
生まれること、“結”はこの世にさよならすること。誰しも生まれる場所や
親は選べません。死ぬことも回避できませんし、思い通りにもいきません。
“起”と“結”は、どちらも同じくコントロール不能な世界といえます。
そのことを改めて思い知らされたのが、2020年2月、神奈川県逗子市で
起きた痛ましい事故でした。通学途中の女子高生が、雨も降っていないのに
突然の土砂崩れに巻き込まれ、亡くなったのです。こんな最期をいったい
誰が想像できたでしょうか。また、タレントの志村(しむら)けんさんは
新型コロナウイルスに感染し、治療の甲斐なく永眠されました。
報道によると、病状の進行が非常に早かったそうです。おそらく、
あれよあれよという間に麻酔剤で意識をなくされ、人工呼吸器に
つながれることになったのだと推察します。「死ぬかもしれない」とご本人が
思う暇もなく、最期を迎えられたのではないでしょうか。
自らの意思と尊厳を保ったまま迎える“結び”
人生の“結”を自分なりに描くことができればとても幸せですが、現実には
そううまくはいかないことの方が多いものです。
Aさんもまた同じです。まさか、夫婦で出掛けた終活旅行のクルーズ船の
中で、わけのわからないウイルスをうつされて命を落とすことになるなど、
夢にも思わなかったはずです。しかし、それでも私が想像するに、Aさんは
“結びの迎え方”としては本望を遂げたのではないか、と思うのです。
Aさんの最期については後日、息子さんから話を伺うことができました。
Aさんは入院先で、呼吸の荒い状態のまま担当医に尊厳死の意思を記した
カードを呈示したそうです。それを受けて、医師はAさんに次のことを
率直に伝えたといいます。「今後もっと呼吸困難がひどくなったら、
気管の中に管を入れて人工呼吸器をつけることになります」「その際は意識を
なくして自発呼吸を止める薬を使います」「そうすれば、呼吸の苦しさは
消えます」、そして「容体が改善すれば目覚めますが、そうでない場合は、
そのまま目覚めないことになります」……と。
これから受ける医療処置は、生き返るためのものであり、同時に尊厳死のための
ものでもある。Aさんは病の床でどちらの意味も理解して、人工呼吸器を
装着しました。自らの意思と尊厳を保ったまま、結びの時を迎えたのですから、
まさしく本望・本懐を遂げたわけです。
最期を迎えるときに大切なことは?
私は子どもの頃から、「死」というものが怖くてたまりませんでした。
そんな人間が医者になり、看取りの医療をしているのですから、人生は
面白いものです。今は自分が死ぬことも怖くなくなりましたが、それは
寿で多くの死を見せてもらったからだと思っています。
人が生きていく上で最も大切な基本骨格は、「居場所」「生きがい」
「自己肯定感」だと思っています。自分が安心していられる居場所、
「これをやりたい、やろう」と思える生きがい、そして自分は
「これでいいのだ」と思える自己肯定感。実は、これらは最期を
迎えるときにも、そのまま当てはまります。
安心して死ねる場所、残された時間に「これだけはやりたい」、あるいは
「これだけは避けたい」と願うこと、そして死にゆく自分を受け入れられる
境地、ということですね。我々、寿の看取りチームはこれらの3つを
本人に確認しながら、最期の伴走を続けます。
苦痛があるときは最大限の努力をもって、それを取り除く。望まない
延命治療はしない。間違っても、死ぬ瀬戸際に救急車を呼んだり、
警察が検死したりすることにならないように徹底する。そして、
亡くなったならば葬儀屋さんまで含めて全部面倒をみる。それを本人に
約束します。そうやって多くの専門職に見守られていることがわかるから、
本人は安心して最期の時間を過ごすことができるのです。
「人生会議」で、最期をどう迎えたいか話し合おう
このような看取りの仕組みは、厚生労働省が提唱している「人生会議」
そのものです。人生会議とは「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」の
愛称で、人生の最終段階にどんな医療やケアを受けたいか、最期を
どう迎えたいか、家族や身近な人と事前に話し合っておきましょう、
というもの。看取る側と看取られる側がしっかりと合意を得ておけば、
双方が「これでいい」と納得できる最期を迎えられます。
もちろん、人生会議は寿の住民だけでなく、すべての人にとって大切です。
この記事を読んでくださっている読者の方も、どうか人生会議をしてください。
自分にとって理想的な最期の迎え方とはどんなものか、ぜひ身近な人と
話し合ってほしいと思います。いざ病気になったり、最期の時に直面したり
したら、考えが変わることになるかもしれませんが、それはそれでいいのです。
穏やかに迎える死。最期の言葉は「ありがとう」
私は寿でこれまでに150人以上の住民を見送ってきました。いろいろな
生き方があるように死に方もいろいろですが、住み慣れた簡易宿泊所の
自室で顔見知りの訪問を受け、最期が近づいてきたことを穏やかに
受け入れられるようになると、多くの人は周囲に対して感謝の気持ちを
表すようになります。それまで悪態をついていた人でも、最期を受容すると
感謝の言葉が出てくるのです。亡くなる前にヘルパーや看護師を
全員呼んで、「ありがとう」を連発して逝った95歳のおじいさんもいました。
「ありがとう」は、平穏であるからこそ出てくる最期の言葉です。
ちなみに、私の父の最期の言葉も「ありがとう」でした。
死は確かにコントロール不能ではありますが、それほど怖いものでは
ありません。不必要な延命行為さえしなければ、苦しいものでもありません。
私は寿の人たちにそれを教えてもらいました。私自身は今のところ、
めちゃくちゃ元気ですが、「ありがとう」と言って穏やかに死ねるなら、
在宅でも病院でもどちらでもいいかな、と思っています。
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