《和子は又々こんな記事を見た~》
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病の母支え
睡眠削り小6まで続いた深夜マッサージ
几帳面(きちょうめん)に棚に並んだ漫画本やフィギュアに、一目で
探せるよう収納された洋服、かばん、帽子。お気に入りを集めた整然とした
空間で、高校3年のショウタさん(17)=仮名=は本をめくり、
ゲームをしてくつろぐ。「自分の部屋を持てたのは中2の途中から。今は
親の体調が安定してきて、夜、起こされる回数も減ったし、めちゃくちゃ
楽になった」とうなずく。 沖縄本島南部の公営住宅に、重い神経痛などを
抱える母のメイカさん(55)=仮名=と入居したのは小学校入学の年だ。
幼い心を翻弄(ほんろう)した日々がようやく落ち着いてきたことを、
穏やかな一人の時間が物語っている。
■小さな大人
ショウタさんは父の故郷の関東地方で、中国籍の母から
生まれた。両親は母がショウタさんを妊娠中に不仲で離婚。母子ともに
日本国籍を取得し沖縄に移り住んだのは、先に沖縄で家庭を築いていた
母の妹である叔母(52)を頼ってのことだ。ショウタさんが4歳の時だった。
関東の縫製工場で働いていた母は、沖縄でも同じような仕事で生計を
立てようとした矢先、頸部脊柱管狭窄(きょうさく)症や頸椎(けいつい)
症性神経根症を患った。首から背中、右手にかけて激しい痛みやしびれが
生じる病気で、手術を受けたが症状は強く残った。働き続けることは
難しく、2008年から生活保護を受けている。 「うちは他の家と違って
不自由。小学校低学年の頃にはそんな現実に気付いていた」。
ショウタさんは母とのこれまでを淡々と口にする。「たいてい、体のどこかが
痛くて寝込む親の姿と、お金がないという思い出ばかり」の毎日で、
空気を読み、他人に頼らない“小さな大人”になっていった。
■背伸びして料理
手に力が入らないため、重い物が持てず包丁も
握れない。長年の神経痛に苦しむ母のメイカさん(55)=仮名=を
ショウタさん(17)=仮名=が支えてきた。 一人で料理を始めたと
記憶するのは小学1年生のころ。「目玉焼きだったかな」。まだ体が小さく、
背伸びをしないとフライパンの中身が見えなかった。「子どもの料理だから、
そんなにおいしいはずはないのに、親は何を作っても『全部おいしい、最高』
と喜んでくれて。それはやっぱりうれしかった」と目尻を下げた。
やがてショウタさんが朝食を作り、野菜や肉を切るなど母の昼食の
下準備をして登校するのが日常になった。学校でも夕食のメニューが
頭に浮かび、帰宅すると支度に取り掛かった。洗濯物を干す、掃除機を
かける、母の買い物に付き添って荷物を持つ、風呂場で母の背中を洗う。
料理の他にも、ショウタさんには数々の役割があった。 母はしばしば、
ショウタさんの「だるそうな顔」や、帰宅が約束より数分遅いといった
「ささいなこと」で声を荒らげ、しばらくの時間、正座で反省するよう求めた。
「どうすれば親を怒らせないで済むか。いつもビビりながら暮らしていた」。
ショウタさんは苦笑いを浮かべた。
■「大人は嫌いだ」
何よりも強烈なルーティンだったのが、深夜の
マッサージだ。小学校の6年間はほぼ毎日、午前0時から3時ごろの間に
上半身の激痛にもだえる母に「ショウタァ、お願い」と起こされた。
眠い目をこすりながら1時間近く、首や背中をもみほぐすと、母はやっと
寝入った。母は言った。「ショウタがいないと、ママ生きていけないよ」
「睡眠がまじでヤバかった」とショウタさんの顔が曇った。
1日3~4時間しか寝られない日もあり、授業中は強い眠気に襲われ机に
突っ伏した。中国で生まれ育ち、日本語の読み書きが苦手な母に宿題を
教えてもらうこともできず「勉強嫌い」はエスカレートした。
子ども心にどうにか現状を変えたいと願っていた。 明るく目立つことで
友逹をたくさんつくろうと、小1で始めたサッカーや学童クラブの時間は、
嫌なことを忘れ、走り回った。しかし家に帰るとまた、母と2人きり。
小2の時だったか、精いっぱいの勇気を出して、つらい生活状況を
学校の担任教諭に伝えたが、返ってきたのは「頑張れよ」の一言だったという。
「その辺りからかな。先生は信じられない、大人は嫌いだと思うように
なったのは。困ったときは頼りにしろとか言うくせに、何にも助けて
くれなかったし」 母が抱える言葉の壁も、隣近所や福祉サービスとの
関わりを遠ざけた。見晴らしのいい団地の一室で、母と子は人知れず
孤立を深めていた。
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