瀬戸内寂聴さん。
寝たきり生活、がん手術を経験して
88歳から病気がちになり、90代になってがん手術を乗り越えた
瀬戸内寂聴さん。2017年に95歳を迎えた寂聴さんは「病を経験した
日々は、老いや死、そして幸福とは何かを考えることの連続だった」と
語りました。その死生観とは?
88歳で圧迫骨折、93歳でがんが見つかりました
私が住む京都・嵯峨野の冬はとても寒く、ときどき雪が降ります。でも、
そんな寒さを感じないくらい、毎日忙しく過ごしています。月に1度、
寂庵(じゃくあん)で行われる法話では、150人ほどの前でお話をします。
立ちっぱなしで1時間から2時間、語り続けています。
こうして元気な私ですが、ここ数年、いくつかの病気を経験しました。
88歳のとき、背骨の圧迫骨折で半年間、寝たきりの生活を送りました。
その4年後には、突然また背中と腰に痛みが走り、腰椎圧迫骨折で
入院しました。体の中をいろいろ調べましたら、胆のうがんも見つかりました。
そのとき私は93歳。普通、こんな年になったおばあさんは、手術は
しないみたいです。放っておいても死は間近ですから。
でも私は、がんと一緒にいるのはまっぴらでした。ですから
「すぐ取ってください!」とお医者様にお願いしたんです。すると
「わかりました」と手術をしてくださることになって、胆のうごとすぐ
取ってくださったんです。結局がんを意識したのは、1日だけ(笑)。
今振り返ると、あまりにもあっけない「がん告知」と短過ぎる
「がん体験」でした。順調に回復し、今もなんともありません。
女性の人生には、2度、体の危機がある
95歳になって実感していることは、女性の長い人生には2度、
体の危機があるということです。1回目は、いわゆる更年期の50歳
前後です。その頃合いの女性は、ほとんどといっていいほど、
心身を病むんですね。私が出家したのは51歳でしたから、今考えると、
更年期の影響だったのかもしれません。
作家の有吉佐和子さんも、あんな明るくて売れっ子ですごく華やか
だったんですけれど、ちょうどこの頃、病気がだんだん重くなって、
亡くなったでしょう。ただ、50代の頃はお医者さんに行って、
注射をしてもらったりすれば、たいていはよくなるものです。
そして2回目が、88歳。この年から「本当の老後」がやってきました。
よく後期高齢者になる75歳からが老後とかいう話を聞きますね。でも、
私の実感からして87歳までは、多少の不摂生をしても、まだまだ体が丈夫です。
でも88歳からは、何が起きるかはわかりません。死もいずれ確実に
やってきます。でもお迎えのときは、自分でいつかはわかりません。
お釈迦様は、こうして死を身近に感じながら生きていくことを、人間が抱える
根源的な「苦」であると説かれました。このような根源的な哲学を
突きつけられるのが、88歳以降だといえるのだと思います。
死後のことより、今をしっかり生きることが大切
みなさんは、死が気掛かりですか? 法話をしていますと、たびたび
「死んだらどうなりますか?」という質問をされます。一番気になる
ことなのかもしれません。 でも、私はいつも「まだ死んだことがないから、
わからない」と、答えています。お釈迦様は、死後の世界について、
何もおっしゃらなかったからです。大切なのは、今この世で悩み苦しんで
いる人を救うことだからと。死後のことを答えてもしょうがないと
思われていたようです。
死後の世界について、作家の里見弴(さとみ・とん)先生と対談をしたことが
あります。里見先生は当時93歳で、今の私と同じくらいで、親しい
友人たちも、次々に亡くなっていっていた頃のことでした。「人間、死んだら
どうなるんですか?」という私の質問に、里見先生が即座に「無だ」と
おっしゃいました。 三途(さんず)の川があるって、よく言われるでしょう?
あれだって、あるのかどうかもわからないんです。川のこっちはこの世、
あっちはあの世。あの世には、いいことがあるのよ、なんて言ったりしますけど、
わからないです。 だから私、法話では三途の川をこんな笑い話に
しているんです。「今はね、高齢者人口が増えて、渡し船じゃ入りきらないから
フェリーよ」って。向こう岸には、前に死んだ人が並んでいて、「あら、
遅かったわねー」なんて言ってくれて、その夜は歓迎パーティーを開いて
くれる(笑)。そんなこと、あり得ないとは思いますけどね。
でもその通りかもしれないし、行ってみないとわからない。なんとでも想像
できるでしょう。結局、誰も知らない死後のことより、今という貴い瞬間を
しっかり生きることが大切ということです。
書斎の机の上に、うつ伏して息絶えたい
私の場合、書いているときが、やっぱり生きていることを実感します。
背骨が丸くなり、目も片目しか見えなくなり、ペンを持つ指の骨も曲がって
しまいました。でも、最期の瞬間まで書いて、命を燃やしたい。もしかしたら、
ペンを握ったまま、乱雑極める書斎の机の上にうつ伏して息絶えている。
そんな憧れの死に様も、夢ではないかもしれません。
先だって、最後になるかもしれない小説を書き上げました。『いのち』と
いう題名は、書く前から決めていました。今自分が考えていることと、
仲が良かった河野多惠子さん、大庭みな子さんとの交流も書きました。
小説『いのち』には、河野多惠子、大庭みな子という2人の芥川賞作家の
知られざる最期の姿も記されています。「2人はまた厳しいライバルでした。
それも書きました。私だから書けたことかもしれません」
2人とも才能あふれる作家で、私より若いのに先に逝ってしまいました。
もうこの世にいない。そう考えること自体、つらいとか、悲しいとか、
そういう次元ではないんです。早くあちらへ行き、3人で一晩中しゃべり明かしたい。
それくらい大好きな2人でした。河野さんとは64年ものお付き合いがありました。
まだ駆け出しの頃、ご両親から「仕送りを止める」と言われてしまった河野さんの
大阪のご実家へ行き、「彼女は芥川賞を必ず取りますよ。続けてやってください」と
ご両親を説得したこともありました。その後、河野さんは本当に『蟹』で芥川賞を
取りました。私たちは感性に加え笑いのツボが一緒で、よく長電話で
笑い合っていました。大庭さんは、私が40代半ばの頃に、『三匹の蟹』で
芥川賞を受賞し、「天才現る」と評された作家です。その作品は詩情にあふれ、
読後にはいつもおいしいごちそうを食べた後のような満足感がくる。
私はそんな大庭作品のファンでした。作品は詩的なのに茶目っ気がある大庭さん。
最期はベッドの上でご主人の口述筆記に頼り執筆を続けていました。2人とも
波瀾万丈の人生でしたが、好きなことをやりきって、幸せだったと思います。
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瀬戸内寂聴さんが作家だった頃は、和子は所帯盛りで朝の5.30分から
夜の11.00時過ぎまで、ゆっくりとテレビを見て居る余裕はなく
「頭を丸めてお坊さんに成られた・・・」と言う事しか記憶に
有りませんでしたが、今ホームページを開くと「不倫が原因で仏の路へ・・・