《和子は又々こんな記事を見た~》
両手足を失った中村久子さんが見出した「生きる喜び」
中村久子さん(1968年死去)をご存じでしょうか。3歳で病気のために両手足を
失うも、すさまじい努力と強い精神で、家事も仕事も自分で切り開いて生き抜いた
人です。苦しみを引き受け「人間としてどう生きるか」を求め続けた久子さんの
生涯を紹介します。
「料理も、裁縫も、掃除も、何でも見事にする人でした」
久子さんは木で作ったへらを口にくわえ、指の代わりにしていました。
引き出しの取っ手に付けた輪は、へらを引っ掛けるためのもの。他の道具も、
歯で噛みしめて使っていたため先端が潰れています
〈来日したヘレン・ケラー女史が『私より偉大な人』とたたえた女性・
中村久子さんを、多くの方に知ってほしいのです。〉読者の鎌宮百余
(かまみや・ももよ)さんから届いた手紙をきっかけに、編集部は一路
岐阜・高山市へ向かいました。飛騨の小京都と呼ばれる高山市。この街で
120年余り前に生まれた中村久子さんは、幼くして両手足を失うという過酷な
運命を背負いながら、72年の生涯を全うした女性です。
「明るくて、曲がったことが大嫌いな人でした」と振り返るのは、
手紙をくれた読者の鎌宮さん。久子さんが幼少期に暮らした家と、
鎌宮さんの実家が近所で親戚のような付き合いをしていたことから、
「久子おばさんは、私を孫のようにかわいがってくださいました」と話します。
「あれは小学3年の夏休み。久子おばさんが家に来て、短い腕でスイカを
きれいに召し上がる様子をじっと見ていた私は、思わず『おばちゃん、
どうしてスイカの汁がこぼれんの?』と聞いたんです。すると『最初に果汁を
吸うのよ』と優しく教えてくれました。きっと、どうしたらきれいに
食べられるのか、研究に研究を重ねられたのだと思います。料理でも、
裁縫でも、掃除でも、手足のないことをこちらが忘れてしまうほど、
何でも見事にする人でした」
口にくわえたへらで布地に折り目をつける久子さん
久子さんは食事をするとき、短い右腕に巻いた包帯にお箸を差し、
茶碗を左腕に乗せて、人の手を借りずにきれいに食べました。
裁縫をするときは、縫い針を口にし、短い両腕で布を持ち、一針ずつ前へ
縫い進めてゆきます。字を書くときは、太い字は筆を口に含んで、細い字は
筆を右腕と右頬に挟んで書きました。「久子おばさんは筆まめでした。
私が20歳の頃、いただいた手紙にすぐ返事を書かずにいたら、
『手のある人は筆不精ね』と言われ、何も言い返せませんでした」と
鎌宮さんは回想します。久子さんが亡くなった当時、23歳だった鎌宮さんは
「最期の3か月間、おそばで看護させていただきました」と話します。
「本人が献体を希望して、遺体は岐阜大学医学部で解剖されました。体中が
ボロボロで、先生方は『生前、どれだけ苦しかったか……この体でよく
72年間生きられました。お見事としか言いようがありません』と
泣きながらおっしゃったそうです」その死から約50年。久子さんの生涯は、
いったいどのようなものだったのしょう。鎌宮さんの記憶やご本人が遺した
記録をひも解いてゆきます。
手足がない上に失明した娘をおぶって母は……
久子さんは明治30年、高山の畳職人の長女として生まれました。2歳の冬、
「あんよが痛いよう、痛いよう」と泣き叫び、下された診断は
「特発性脱疽(だっそ)」。血流障害で手足が壊死してしまう難病で、
「切断手術をしなければならぬ。しかし生命は保証できない」と宣告されます。
うろたえた両親が手術を決断できずにいる間も、小さな手足は高熱で
黒くただれてゆきました。ある日、久子さんのけたたましい泣き声に、
母が駆け付けると、傍らに白いものが転がっていました。包帯を巻いた
左手首が、もげ落ちていたのです。病院に担ぎ込まれた久子さんは、
両手足を切断。その後も痛みは去らず、昼夜なく泣き叫ぶため、近所に
気兼ねする両親は久子さんをおぶり、大雪の日も街中をさまよい歩きました。
久子さんが幼少期を過ごした家のそば。冬場は寒さが厳しく、雪で白く
染まります。久子さんが6歳のとき、父が急死してしまいます。
治療費などで借財を抱えた母は再婚。義父に冷たくあたられ、久子さんの
心は暗くゆがんでいきました。そして9歳のある朝、両目が光を失って
しまうのです。このとき母の失望はどれほどだったでしょう。闇夜の中、
手足がない上に失明した娘をおぶった母は、山道をひたすら進み、
川の上流に立ち尽くしました。やがて「母(かか)様、こわいよぉー」と
泣く娘の声で我に返り、よろよろと家に帰りついたのです。後に久子さんは
こうつづっています。「人の世に生きることの難(かたき)に堪えかねて、
安住の地を死によって見出そうと母はしたが、やっぱり死は
得られなかったのです。すべての苦しみと悲しみを堪え忍んで哀れな不具の子、
私を育てるべく思いかえした(中略) 女は弱し、されど母は強し
「できないのは横着だからです」と厳しくしつけられ
久子さんが古いきものをパッチワークした、こたつの敷布団。破れた部分には
丁寧につぎを当ててあります1年ほどたち、幸いにも光を取り戻した
久子さんに、母は厳しいしつけを始めます。まず言いつけたのは、
仕立て替えするきものをほどくこと。「できません」と音を上げる娘に、
母は容赦なく言い放ちました。「できないからといってやめてしまったら、
人間は何もできません。やらねばならんという一心になったら、やれるものです。
できないのは横着だからです」冷たいまでに厳しい母を「これが本当の親なのか」と
恨みながら、久子さんは何日もかけてとうとう口でハサミを使うことを覚えました。
「これは大きな歓喜であり、発見でした」と、久子さんは晩年に
回想しています。「刺繍も編み物も、お部屋の掃除も囲炉に火を焚くことも、
洗濯も包丁を使うことも、みんな母から厳しゅう言われ、
覚えたものばかりでございます」 もちろん一朝一夕にできることはなく、
一つ一つ覚えるのに血のにじむような努力がありました。あるとき、
久子さんが口で縫った人形のきものを、近所の友達にあげると、その子の母は「こんな
汚い物!」と川に捨ててしまいました。口で縫い、口で糸をしごいて仕上げた
きものは、つばだらけになっていたのです。久子さんは
「つばだらけにしてはいけない、ぬらさぬように、というのは
悲壮なまでの念願でした。ぬれない裁縫ができるまでには、
13年間の長い年月がかかりました」と記しています。
久子さんが編んだ小さな巾着に入っていた、たくさんのあまり糸。「とにかく
ものを大切にする人で、はぎれやボタン類もすべて大切にとってありました」
と鎌宮さん
レース糸で編んだ敷き物とテーブルクロス。デザインにもこだわりが
ありました
きれいに整頓された編み物の道具。「編み物は手芸の中でも特に好きでした。
歯が丈夫で熱心に編んだときは、一ポンドの並太毛糸は二日間で難なく
編みました」と自ら記しています
生きている以上、自分で働いて生き抜く
20歳を前に、久子さんは見世物小屋に入ることを決めました。「手足が
無くても生きている以上は自分で働いて生き抜こう」と覚悟したのです。
大正5年、「だるま娘」として初舞台を踏んだ久子さんの芸は、口と短い腕で
裁縫や編み物をし、書をしたためること。地味ながら見事な芸は評判を呼び、
以降26年間、日本はもちろん、朝鮮や台湾まで巡業することになりました。
20代後半の頃、見世物小屋の宣伝用に撮影したと思われる写真。口には
編み棒をくわえています。興行の世界では、交渉事や荷物の運搬などに男手が
必要です。旅から旅の日々の中、久子さんは23歳で結婚。長女を出産し、
母となった喜びをかみしめたのも束の間、夫が病死してしまいます。翌年に
再婚し、次女をもうけるも、またも夫と死別。3番目の夫は、女道楽が
激しい上に浪費家で、授かった三女は、わずか10か月で命を閉じました。
次々苦難に見舞われた30代の頃の久子さん
苦難にあえいでいたとき、久子さんは雑誌で見た一人の女性の姿に心を
揺さぶられます。その人の名は座古愛子(ざこ・あいこ)。16歳でリウマチを
患い、寝返りも打てない身ながら、神戸女学院の購買部の隅にベッドを置いて
働き、人の相談にも乗っている女性でした。すぐさま神戸女学院に座古さんを
訪ねたときの感動を、久子さんはこうつづっています。
「女史とは初対面なのに双方とも言葉はなく、ただ目と目を見交わした刹那、
涙はせきを切って流れ出ました。(中略)最悪の不自由者お互いが、
生きているのではない、“生かされている”(中略)心の底に無言の声が
はっきりとひびきました」帰りの道中、「自分で動けぬ体であっても、
不平も言わず、他人の幸福を祈っている女史を思えば、私はなんと罰当たり
だろう」と考えた久子さんは、「心の眼」が開かれたのを感じました。
もう一人、久子さんを励ましたのがヘレン・ケラーです。社会事業家の
岩橋武夫さんを介して、昭和12年に来日したケラー女史と
日比谷公会堂で対面。ケラー女史は、久子さんを抱きしめ、そっと両手で
短い手足をなでると、「私より不幸な人、そして偉大な人」と熱い涙を
流しました。
いかなる人生にも決して絶望はない
万年筆の細かい字で書かれた家計簿(奥)と講演の記録(手前)。障害の
ために小学校へ通わせてもらえなかった久子さんは、文字の読み書きをすべて
独学で覚えました。久子さんが後半生で心の拠り所としたのが、親鸞の教えを記した
真蓮寺住職の三島多聞さんはこう話します。
「久子さんは手足がないことで、なぜ自分はこんな目に遭うのかと長年
苦しみました。そして『歎異抄』と出合い、手足のない自分をそのまま
引き受ける、という考えに変わったのです。人間としてどう生きるかを必死で
求め続け、自身が詠んだように『手足なき身にしあれども生かさるる
今のいのちは尊かりけり』 という境地に至ったのでしょう」
晩年、久子さんは四番目の夫と自作の詩「ある ある ある」(下記)のような穏やかな日々を過ごし、講演で各地を回りました。そして体の不自由な人に
自立して生きる道を示し、こんな言葉を残したのです。
「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」
37歳のときに再婚した夫、中村敏夫さんと。とても温厚な夫で、久子さんの
足となり、全国を講演するのに同伴しました
「ある ある ある」 中村久子
さわやかな 秋の朝
“タオル取ってちょうだい” “おーい”と答える良人がある
“ハーイ”とゆう娘がおる 歯をみがく 義歯の取り外し
かおを洗う 短いけれど 指のない
まるい つよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある 何でもしてくれる
短い手もある ある ある ある みんなある さわやかな
秋の朝
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和子はこの中村久子さん見た様な気がする
と言うのは、和子が子供の頃、田舎の実家の近くのお寺だったか?
学校だったか忘れたけど・・・両手・両足の無い確か中村久子さんと
おっしゃった様な・・・講演会で演説をされて母と聞きに行った記憶が???
未だ幼かった和子も難病を患い、危うく障害児に成る所だったから・・・
子供ながらに・・・自分も足を切断するんじゃ無いかと・・・
熱心に聞いた思い出・・・