《和子は又々こんな記事を見た~》
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電話ボックスに遺棄された
赤ん坊が歩んだ四半世紀
電話ボックスに響いた赤ん坊の泣き声
ひとり1台のスマートフォンを持つ時代、いつの間にかほとんどその姿を
見かけることがなくなった電話ボックス。かつては、日本全国津々浦々に
存在したあの畳半畳ほどの小さな空間に様々な思い出を重ね、懐かしむ
人も少なくないだろう。しかし、その空間は時として事件の舞台にも
なってきた。 あの日から四半世紀経った今も確かにその電話ボックスは
存在していた。 25年前のあの日、電話ボックスに響いていたのは
受話器に向けて話す人の声ではなく赤ん坊の泣き声だった。タオルに
くるまれ、へその緒がついたままの姿。元気な男の子だった。状況から
生まれたその日に遺棄されたとみられた。当時、事件として警察が捜査に
乗り出したが、生みの親が見つかることはなかった。 今年、赤ん坊は
25歳の青年になっていた。
あの日、死ねなかった「罪滅ぼし」
その男性と会ったのは東京・渋谷だった。雑踏の中から現れた青年は
マスクの隙間から人懐っこい笑顔を見せた。「生まれた日が棄てられた日」と
いう特殊な過去を背負っているようには見えない。しかし、彼が名乗る
仮名「みそぎ」の由来を聞いて言葉を失った。 「小さい時に、
死ねなかった。遺棄されたタイミングで死ねなかったっていうふうに思うと、
自分は何かしらの罪滅ぼしをしながら今後生きていかなければいけないの
だろうなとずっと思っていた」 今現在はそうした思いは薄れたというが、
そうした思いを抱いていた事実を忘れまいと自らをみそぎと
名乗ることにしたのだという。自身の壮絶な出自についてほとんど感情を
出さず、淡々と語るみそぎさん。どこか達観しているようにも見える
話ぶりに逆に惹き込まれた。
突然の告白「俺の子どもじゃない」
父親が口走った言葉をみそぎさんは 今でも鮮明に覚えている
みそぎさんは電話ボックスで保護され、その後、特別養子縁組を結んだ
両親の元で一人息子として育った。特別養子縁組とはさまざまな理由で
「産みの親」が育てられない子どもを「育ての親」に託す制度で
成立すれば実の子と同じ親子関係になる。みそぎさんは大学進学で親元を
離れるまで両親の元で暮らした。その両親について聞いた時、みそぎさんの
表情が少し曇った。 「良くも悪くも特別養子縁組は縁が切れないので。
なんだかんだ言っても、あの人たちは今までお金をかけて育ててきたのも
事実ですし…」 みそぎさんは両親のことを無意識に「あの人たち」と呼んだ。
一体、どういう関係なのだろうか。その関係性を決定づける出来事は
高校時代に起きたという。 「高2の冬、勉強教えてもらっている時に
全然問題が解けなくて…。解けないのを見て父がさすがにしびれをきらして
『なんで解けないんだ』と。その後に『そうか、俺の子どもじゃないから
解けないんだ』と言って…」 父親が感情的になって口を滑らせたのだ。
養子である事実を初めて知った瞬間だった。
“大人の事情”で子どもに隠された真実
子どもに恵まれなかった両親が自分を養子として迎え入れた理由を
みそぎさんは次のように語った。 「父は跡取りが何としてでも…。
家と仏壇、土地の管理をするのは長男という考えの人なので跡取りが
必要だと。だから父は立派な跡取りを育てるというのが人生の
モチベーションなのです」 「母は何が何でも自分の子を育てたかった。
自分が産んだ子どもとして育てたかった。母は『この子、私が生んだ子』って
思っています。暗示をかけています」 そのため、両親は特別養子縁組と
いう事実に向き合うことはしてこなかったのだという。父が口を滑らせた後、
両親が改めて養子の事実について伝える場を設けた。母親は
「なぜ言ってしまったのか」と父に怒り、泣きじゃくり取り乱していたという。
その後、詳しく自分のルーツについて聞こうとしたとき、父親から
言われたことを今でも覚えている。 『その話をしたら母がああいう
状態になる。親がそういう話をされたくないという気持ちをお前も
もう大人なんだから想像くらいできるだろ』 それ以来、家族の間で
この話はタブーになった。 特別養子縁組について両親は隠し通す
つもりだったとみそぎさんは考えている。「子どもの幸せのために
つくられた制度」でも “大人の事情”によって本来の目的が
ゆがめられてしまうこともあるのだ。
追い求めたルーツは「乳児遺棄事件」
みそぎさんは自分の遺棄を報じた 新聞記事の
切り抜きを今も大切に 保管している
みそぎさんが今も大切に保管している資料を鞄の中から取り出して
見せてくれた。それは児童相談所から届いたという茶封筒に入れられていた。
最初に出てきたのは大学生のときに書いた、児童相談所への個人情報の
開示請求書だった。「開示請求の目的」を記す欄いっぱいにみそぎさんの
几帳面な文字が詰め込まれていた。 「生みの親が誰なのか、何歳のときに
産んだのか。生きていらっしゃるのか。残っている記録の見ることが
できる全てを知りたいというのが本音です」 大学進学で親元を離れたのを
きっかけに、ずっと知りたかった自分の詳しいルーツをたったひとりで、
調べ始めたのだ。開示請求の許可が下り、児童相談所から送られてきたのが
あの封筒だ。そして、最初に目にしたのが4紙の新聞記事の切り抜きの
コピーだった。見出しには「電話ボックスに男児を置き去り」とあった。
「これは事件だったのか…。捨てられたのか…。たぶん人間が生きていく中で
一番弱い状態であろう、生まれた直後の子ども。親としても自分が生んだ
子どもと最初に対面したときが一番幸せな時間だという人もいる中で、
自分の親にとってはそうじゃなかったんだな」
それでも知ってよかったと思えるワケ
真相を知る電話ボックスは 今もそこにたたずんでいる
電話ボックスへの遺棄という事実をみそぎさんは本当に知って
よかったと思っているのだろうか。知らないという選択肢もあったのでは
ないのだろうか。しかし、みそぎさんは「遺棄ということはこれ以上
知りようがない。誰も知らないことだったら気にするのはやめていい」と
考えられたという。 「ルーツをなぜ知りたいのか?」という素朴な疑問を
ぶつけると、みそぎさんは少しムッとした様子でこう答えた。
「動機はいらんでしょ。知りたくて当然のこと。本来知っていて当然のことを
僕らは知らない。それを不安に思う。出自を知りたいことに、
調べたいと思うことに理由は必要ですか?ただ、ただ、知りたいんです」
誰もが当たり前のように持っているモノを持っていない。それを求めて
何が悪いのか…。どんな質問にも理路整然と冷静に答えていた
みそぎさんが唯一「言葉でうまく説明できない」感情を見せた。
「『出自を知らないで済む権利』という考え方もあるけど、僕らは
そもそも『知らないで済む権利』は行使しようがない。
そもそも『知らないこと』を知らないのだから。まわりの大人が勝手に
行使するのは許されない」 親が子どもを“自分の所有物”ではなく、
“ひとりの人格”として見ているかが問われている。 親が子どものためと
思って決めたことも“大人の事情”が入り込んでしまうこともあると
みそぎさんは考えている。 「子どもは考えられないから大人が考えて
あげるというのは多いと思う。でも、そんなことはなくて、
子どもも考えている。親は子どもの人生の先輩ではない。親はその子の
人生を歩んだことはないはずだ。そこを勘違いしてはいけない」
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今や、もう半世紀昔、和子が結婚して早々に「子供が出来る迄・・・」と言う
条件で夫と2人で早朝から東横線に乗ってお勤めを始めた個人会社には
男女数十名の方が働いて居ましたが、女性で既婚者は当時は和子だけでした
和子より2歳年上のノンちゃんは結婚して居る和子を羨ましく思ったのか?
「私は秋には東急バスの運転手と結婚するんだ!!」って話して居ました。
和子は結婚して翌年、長男を身ごもって3月で退職しましたが、風の
便りで「ノンちゃんが一度も産婦人科の問診を受けずに可愛い男の子を
出産したとか?その可愛い男の子の父親は何人もの男性とお付き合いをして
誰の子供か分からないとか?」この年は1970年の大阪万博の年で
万博に訪れて居た男性に引き取られたとか?本当だかウソだか?
今元気なら、このみそぎさんのお父様位?やっぱり彼もみそぎさんの様に
「現実を知りたい」って思って居るのかな?(笑)
【なれそめを 初めてきいた 通夜の晩(シルバー川柳)】