社会復帰・・・

未だ、33歳の若さで2人の子供を持つ母親で有りながら「腎臓結石・胆石」と

夫や子供にお世話に成りながら、何とか病魔との戦いを一応克服して半年に一度

赤十字病院の泌尿器科に検診に行きながら、又パートとして働き始めました。

東芝の音響工場に5年9ヶ月、

久々の工場勤務で人間関係は難しく、苛めを受けて涙した事も多々有りましたが

先輩たちに、可愛がって貰って大先輩にフグ料理を食べに連れて行って貰ったり・・・

其れはそれは楽しい5年9ヶ月でしたが、不況の煽りで和子の部署は青森に

移転と成り、解雇と言う結末を迎えて退職と言う結果に・・・

この時、和子は42歳だったかな?

 

働く事の好きな和子は、子供も大きく成ったし・・・出来たら社員採用を望み

又生まれが織物の町、滋賀県で出来たら繊維関係の仕事がしたいと・・・

チラシを見たらニットの会社が???有った~~~((^▽^笑) )

 

 【年重ね もう食べられぬ 豆の数・・・(シルバー川柳)】

 

アッ?和子の『サンゴ状結石?』

石塚先生から「貴女は出来易い体質だから・・・一生縁が切れない事を

覚悟した方が良いよ~~~」と言われ、「食事療法は???」と聞くと

「貴女の結石は『サンゴ状結石』でリン酸で出来て居るから食事療法は

不可能だから出来るだけお水を飲んで尿を出すように・・・」との事でした。

術後も半年に一度は検診に通院していましたが、術後半年で又腎臓に結石の影が???

 

胆石は2年後に再手術をして胆のうを切除し胆石とは縁が切れましたが・・・

和子に生きる為の危険信号を送って呉れた胆石は最初は小豆粒位の小さな

結石でしたが、2年ほど大事にして居たら真っ黒いビー玉位の大きさに・・・

この胆石は実験材料に小さく割られて居ました。

 

腎臓結石は縁が切れず・・・ず~~~と半年に一度検診に・・・

石塚先生から「今は破砕で砕いて出せる機械が開発されて

日本には未だ3台しか無いけど・・・北里大学に有るから100万円用意してね?」と???   (え~~~東芝でパートで働き、時給500円で1年頑張らないと

100万円稼げないのに~石ころ一個に取られちゃうの~~~?や~だ~~~(笑)

 

そんなある日検診に赤十字病院に行くと・・・

泌尿器科の前に和子の、あの浅田飴の缶に山盛り一杯有った結石を接着剤で

レントゲンに写った、頭が有って両手・両足広げた、あの腎臓結石を再現し

立派な箱に飾られ「サンゴ状結石」と命名されて・・・長い間飾られて有った・・・

 

【ガガよりも ハデだぞウチの レディーババ・・・(シルバー川柳)】

 

未だ残る胆石・・・

赤十字病院の泌尿器科の石塚部長先生から「お腹を切って腎臓を切って中の

結石だけを取り除く手術をするから2週間は絶対安静にして身動き出来ないのを

覚悟の上で入院しなさい」と命ぜられ17日間安静にして、やっと社会復帰が

出来ましたが、未だ、あの2晩の激痛で和子が生きる為に信号を送って呉れた

胆石は大事に胆のうに残り、最初は数ヶ月~月に数回・・・数日に1回と

痛みは段々と狭まって・・・有る時夫の実家に行き、帰りの電車の中で激痛を

起こし、一旦は自宅に戻りましたが、痛みは治まらず・・・夫が掛かり付けの

開業医に電話をして呉れて、急きょ夜中にタクシーで赤十字病院へ・・・

その間に数時間経過し、病院に着いた時には痛みは治まり・・・宿直の先生に

痛み止めを頂いて電車でわが家へ・・・

 

その後、日を改めて消化器科へ紹介されて消化器科の主治医が和子の胆石を

見届け・・・再度入院して胆石の手術を・・・腎臓結石の術後2年の後に・・・

胆石は1日2日で起きられて・・・義母のお世話には成らず長男は少年野球に

籍を置き、次男が洗濯物を取りに来て呉れて・・・

未だ幼い次男、電車に乗り越して迷子に成ると困るから・・・

「自宅に着いた頃に電話をするから其れまでお家に居てね?」と約束して

確認電話を・・・

和子も未だ若かったけど~子供も未だ々幼いのに・・・夫や2人の息子に

感謝・感謝・・・ 「有難う~」

 

【延命は 不要と書いて 医者通い・・・(シルバー川柳)】

 

職場にご挨拶・・・

開業医の先生から「腎臓の検査をした事有るか?」と聞かれレントゲン撮影の

ファイルを見せられた時、耳タブの様な形をした腎臓に、お人形さんの様な恰好で

頭が有って両手・両足を広げて座ってる様な形をした結石

知らない和子には「腎臓機能の一部」だと思った。

 

無事に退院をして職場のスーパーにご挨拶に行き、働く皆さんの美しい姿に

和子は又もや感動しました。

 

日頃汗水を垂らして、難しい人間関係の中で黙々と働く皆さん、元気で働ける

喜びに、感謝し又、仕事の合間に病院に寄って見舞って呉れた夫に・・・又

家族に「本当に有難う・・・」

 

【目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ】

 

38日の入院を終えて無事に退院

無事に14日間の寝たきりの生活も又大事を取っての3日間の

紐付き(尿管)も終り38日と言う長い病院生活に終止符を打って愛しい息子の

待つ我が家へ~    4時間の長い大手術の時は田舎から2人の兄貴も見守って呉れて

未だ麻酔の切れない内に帰り、満足に兄貴たちに「有難う~」とお礼も

言えなかったけど~夫や義母・愛しい息子たちに無事の退院を祝福して貰って

最高の喜びでした。ですが、大手術だっただけに未だ2週間に一度の通院が有り

未だ、あの夜2晩激痛で苦しんで、腎臓結石と言う大病を教えて呉れた胆石の石は

未だ胆のうに残り、数ヶ月に一度は激痛を・・・その後2年間

胆石の激痛に耐えて 再度入院へ・・・

  三国さんとのお別れ・・・

 2週間に一度検診に行く度に内緒で三国さんを見舞って居ましたが

一向に回復の兆しは見えず、有る時、病室に上がって行くと白鳥さんが・・・

「三国さんは個室に移って00号に居るよ~」って教えて頂きドアを開けると

ご主人に幼い子供さんのアルバムを沢山届けて貰って眺め・・・

「私はもう帰れ無いかも???」って???未だ4歳ほどの幼いお子さんが

無邪気に笑い・和子は熱いものが込み上げて来る。

何とも言い様の無い一ページでした。

この次の検診の時に伺ったら・・・「面会謝絶」の札が掛かり

天国へ旅立たれた様です。享年 40才かな?   ― 合唱 ―

 

【躓いて 何もない道 振り返り】

 

14日間の寝たきりの生活から解放

先生との約束の十四日間の寝たきりから解放されて「じゃ~起きても良いよ~」って起こされて床に足を突けたら・・・一瞬、お花を生ける剣山の上を歩く様な

感じでチクチクと足の裏が痛かった記憶が・・・

十四日の寝たきりの生活から解放されて起き上がることは出来、食事もしっかりと

食べられる様に成りましたが「もう少し大事を取って三日間は尿管が繋がれたままでベットの周りをヨチヨチ・・・と歩く練習・・・配膳までは未だ無理(笑)

でも~食卓のお膳を自分の眼で見てお箸でご飯やおかずを口に運ぶ・カップでお茶が

飲める喜びを痛感し・極、当たり前の事に感動し・極、当たり前の事の出来る事の

喜びを痛感に感じました。その後、三日経ってようやく尿管も外されて・・・

「もう歩いても良いよ~」と許可が出て自分でトイレに行って

下の世話の出来る喜び・・・

和子はこの時、(誰がこの様な個室を考えたのだろう???)と思った(笑)

 

 

【起きたけど 寝るまでとくに 用もなし】

 

長女の死 (享年 88歳)

 昨年三月十八日に姉の連れ合い義理のお兄さんが亡くなり、今年三月に一周忌で帰った時は取っても元気だったのに・・・先月の末に次姉から電話で「姉ちゃんが足が浮腫んで歩くのが困難の様だけど・・・お医者さんの問診を受けると『心臓も丈夫だし心配無さそう~』と聞いて居ましたが、突然に今月八月一日の朝五時半頃、次姉から電話が有って『夕べの十一時半頃,息を引き取って今晩お通夜・明日朝十時に告別式をするそうだけど・・・家族葬で済ませるとか言ってるから横浜の遠方から帰ることも???』と言われ一旦は御香典を預けて遠慮しようかと思いましたが、続いて姪っ子から電話が有って『絶対に後悔をするし~オバチャンが寂しがるから帰って来て~~~』と

涙され急きょ支度をして田舎に・・・

 

聞く所に依ると、姉は八八歳のご高齢で、和子は亡き母と同じ様に老衰かと思って居たら末期の肝臓がんだったとか?

昨年三月に夫を亡くし、田舎は葬儀・告別式は丁寧で八七歳の姉が金銭面から

色々と準備をするのが大変だった様だし・・・まして今思えば昨年の三月義理兄が

亡くなった時は、もう既に姉の身体は病魔に侵されて居たのかも?

姉は亡くなる前に、私の葬儀は『家族葬で・・・』と望んで居た様で家族葬

取り行われましたが、田舎は未だ々家族葬が馴染めず・・・皆さん姉を偲びお焼香に

見えて家族葬が返って割高になって祭壇だけがチト惨めでした

 

【女子会と 言って出掛ける ディケアー】